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広瀬 大介

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

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第53回 和声を学ぶ――チャイコフスキーの教科書と島岡譲の課題作品集

 いきなり自分の昔話からはじめてしまうことをどうかお赦し頂きたい(これも老人性痴呆の一環ということで……)。かつて、評者は、大学院生の頃に、やはり機会を頂いて、ベルリオーズ著、リヒャルト・シュトラウス補筆による『管弦楽法』の飜訳に取り組んだことがある。ちょうど博士論文を執筆している頃に並行して進むことになってしまい、非力な自分の手には負えないほどの作業量になったのだが、監修をお務め頂いた小鍛冶邦隆先生のご助力を頂きつつ、なんとか訳了までこぎつけたときの達成感は、ある意味(その後に書いた)博士論文よりも大きかったかもしれない、といまになって思う。
 その後、ワーグナーなどをご専門にされていた故・三宅幸夫先生に書評を書いていただく機会があり、そこで「歴史的著作の飜訳は気骨の折れる仕事」と、優しく労ってくださったことは、本当に、涙が出るくらいありがたいことだった。目の前にある外国語を、右から左へと日本語に移し替えるだけでは済まない煩雑な作業こそが飜訳であり、同時代を生きていない、しかも超大物によるドキュメント(一次資料)をひもとくには、前提となる知識、あるいは研究が山のように必要であることも思い知った。同様の飜訳に取り組んでおられた三宅先生は、拙いながらも努力を重ねた末に生まれた本と、監修者・訳者の労を多としてくださったのだろう。それ以来評者も、翻訳書、そしてそれを飜訳してくださったひとには、限りない敬意を捧げることにしているのである。

 今回、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーによる和声の教科書、『実践的和声学習の手引』が、初めて日本語訳として登場することになった。飜訳を担当された山本明尚さんは、現在東京芸術大学の博士後期課程に在籍中であり、ロシア国立芸術学研究所音楽史専攻で研究を続けられている。ロシア音楽研究において、将来を大変嘱望されている山本さんが、その後期課程在籍中に、そして博士論文執筆中に歴史的著作の飜訳に取り組まれ、今回の飜訳書を上梓されたということで勝手に親近感を覚えており(評者よりもはるかに優秀なのに……)、延々と自分語りをしてしまった次第である。今回の訳業も、きっとご自身の研究・博士論文の一環として取り組まれたのだろう。
 この著作の歴史的意義について、詳しくは訳者・山本さん、そして解説を執筆された森垣桂一さんの解説をご参考頂ければ幸いである。チャイコフスキーは12年にわたってモスクワ音楽院で教鞭を執り、和声学を講じていたが、ロシアにおける音楽高等教育は緒に就いたばかりであり、おそらくはまともな教科書も存在していなかった。その中で、学生への課題として自身が書き溜めていた内容(あるいは優秀な学生の講義ノート)をまとめ、和声課題などを追加したものが本書のもとになっている、という。評者も(チャイコフスキーに自身を比すのはおこがましいことこのうえないが)、授業での成果を後から本にまとめる、ということを続けているので、この著作の成り立ちの過程が目に浮かぶようですらある。ごくシンプルな譜例とともに、簡潔ながら行き届いた説明が施されており、チャイコフスキー自身も、教室ではこのような感じで和声を教えていたのだろうなあ、という不思議な感覚とともに通読することができるだろう。
 「読める和声の本」としては、いまなおウォルター・ピストンの『和声法』にまっさきに指を屈するのだが、このチャイコフスキーの和声もまた、和声の知識を確かめることができる理想的な教科書という意味で、歴史的な「古さ」を感じさせることはまったくない。もちろん、そのように読めるというのは、山本さんの行き届いた訳業のお蔭であることはいうまでもない。評者もまた、三宅先生から受け取った言葉をそのまま伝える形で、「気骨の折れる仕事」に従事してくださった山本さんの労を、最大の感謝とともにねぎらいたいと思っている。ロシア音楽研究の将来を背負う存在として、山本さんにはさらなる研究成果の発表を待ち望んでやまない。

 同時期に発売されたもう一冊の和声の本は、『島岡譲 和声課題作品集』。弟子のおひとりであった柳田憲一さんが、島岡氏の「これまでに作った和声課題の本を出したい」という呼びかけに応える形で、恩師の自宅に保管されていた数々の和声課題をまとめ、確認作業を繰り返したうえで、一冊にまとめたものという。タイトルに「作品」と入っているのが大きな意味を持っているのだろう。著者自身が「はじめに」で触れているとおり、「和声課題は単なる課題でなく、明確な音楽作品たり得る」という氏の信念がここに表れているということなのだろう。バス課題、ソプラノ課題、アルテルネ課題(バス・ソプラノの混合課題)がそれぞれ提示され、自分で課題を実施した後に、後半の実施編と比較検討する、という利用法が想定されている。島岡氏は2021年に鬼籍に入ってしまわれたが、日本におけるこれまでのご活躍の数々を思えば、まさにその集大成というべき著作であろう。
 今回、自分も簡単そうな実施編のいくつかをピアノで弾いてみたが、確かに無味乾燥な「課題」に終始するようなものではなく、暖かな血の通った「作品」「音楽」としての豊かさが満ちているように感じられた。芸術的な完成度の高い練習曲を作曲したショパンのような存在がいるのと同様に、島岡氏の名もまた、和声を学ぶうえで、今後も決して避けて通ることのできない存在として、輝き続けることだろう。

●島岡譲氏が執筆責任を務められた『和声:理論と実習』I、II、III、別巻については第30回にて紹介しています。

※この記事は2023年4月に掲載致しました。

ご紹介した本
実践的和声学習の手引
 

 

実践的和声学習の手引

チャイコフスキー 著/山本明尚 訳/森垣桂一 解説

 1866年にモスクワ音楽院が開校されて以降、「基礎理論(楽典)」「和声法」「管弦楽法(自由作曲)」の授業を受け持ち、12年間にわたって音楽理論の教授として教鞭をとったチャイコフスキー。原書はこの間、学生たちに授業するため著されたもので、ロシア最初の和声の教科書である。在職中の12年間は、交響曲、《白鳥の湖》等のバレエ、オペラ、幻想序曲《ロメオとジュリエット》等の管弦楽曲、『ピアノ協奏曲第1番』『ロココ風の主題による変奏曲』など、幅広いジャンルの作品を数多く作曲した時期とも重なっているため、彼の作品の魅力を創り出している音楽技術の一部分を、この一冊から読み取ることもできる。
 また、和声の習得を目指す教科書としての利用も効果的である一方で、チャイコフスキーや同年代の作曲家たちが和声の各要素についてどのように学び、考え、作曲し、そして後進の指導にあたっていたのかをうかがうことができる歴史的・資料的価値も含む貴重な一冊である。


和声法
 

 

和声法

ピストン 著/デヴォート 増補改訂/角倉一朗 訳

 1941年の初版以来、48年、62年、78年、そして最新の1987年の第5版まで改訂増補されつつ版を重ね、アメリカの音楽大学や総合大学の音楽学部でもっとも広く使用されている和声法教本の全訳。最大の特徴は、和声法の理論と実習と分析が一体化していることで、一定の規則を示すだけでなく、つねに実作品の譜例を参照しつつ、規則や定型を現実の音楽から抽出しているため、大学などのテキストとしてはもちろん、独習にも最適の内容である。また和声にかぎらず、リズム・旋律・構造についても論じており、18世紀~20世紀初頭(バッハからヴェーベルンまで)の西洋音楽のしくみを総合的に理解することができる(つまり、理論だけでなく、音楽史を学ぶことができる)。記述はきわめて簡潔明快で、各章末の実習課題も、通例のバス課題と旋律課題にとどまらず、さまざまな工夫がこらされている。


島岡譲 和声課題作品集
 

 

島岡譲 和声課題作品集

島岡譲 著/柳田憲一 編集協力

 『和声 理論と実習』『総合和声』など数々の理論書の執筆者として知られ、国立音楽大学と東京藝術大学で約40年にわたり教鞭をとってきた島岡譲氏。本書は、島岡氏がこれまで書き溜めてきた作曲科学部・大学院の入試問題や学内試験の和声課題用の作品、ならびに、未発表の和声課題用の作品をまとめたもの。バス課題70題、ソプラノ課題49題、アルテルネ(バスとソプラノの混合)課題46題の計165題を収録する。
 学習の補助として、実施篇(解答例)には適宜、編集協力者による注を記している。また、「編集協力者より」では、各課題の難易度が『和声 理論と実習』や『総合和声』のどの部分と対応するかを一覧表で示している。  さらに、巻末付録では収録作品の自筆譜やスケッチを紹介。島岡氏の筆致や推敲の過程をたどることができる。


 

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