専門書にチャレンジ
広瀬 大介

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

これまでの記事はこちらからどうぞ

第52回 「音楽とは何か」という問いに挑む―—音楽文化、音楽史、分析の立場から

 いつもながら評者の個人的な話からはじめてしまい恐縮である。普段、音楽を教える立場でありながら、そもそも音楽とはいったいなんなのか、音楽そのものの意義を教えることの本質に立ち返って考えることは稀である。ほぼない、と言ってもよい。いわゆる一般教養にあたる全学生を対象とした、「音楽」「音楽史」と題される二種の授業を受け持っているのだから、その大命題に真正面から立ち向かえばいいのだが、どちらも専門的な内容を教えることに終始してしまっている。いまだ「音楽とは」という問いに答えられるような、包括的に講義できるほどの知識に乏しいので、自分にはそのような授業しかできない、というべきかもしれない。そのため、ニコラス・クックのような知の大家が、豊富な実例を引き合いに出しながら縦横無尽に、『音楽とは』というタイトルそのままに、永遠の問いに真っ向から相対するのを眺めるのは、純粋に痛快である。

 いや、本来、この本は、オクスフォード大学出版局から発売されている『とても短い入門書』シリーズの1巻として書かれたものなので、これから音楽を本格的に学んでみたい、と思っている若いひと、あるいはもういちど学び直したいと思っている一般ファンをその対象としているのだとは思われる。この本の成り立ち、その意義については、訳者の福中冬子さんがあとがきでこれ以上ないほどわかりやすく説いて下さっているので、もはや評者ごときがここで書くことはないのだが、少しだけ付け加えておこう。
 本書は、おそらく、通読する必要はあまりない。各章はゆるやかにつながりを保ってはいるが、独立したテーマを扱ってもいるので、自分がもっとも馴染みの深いところから読み始めるほうが、クックがどのような問題意識を持って「音楽とは」という問いに答えを出そうとしているのかが、よりハッキリとわかるだろう。たとえば、日々スマートフォンで動画を観たり、サブスクリプションを契約して音楽を聴いたりしているような若い世代は、第四章「Music 2.0」から読み始めればよいだろう。クラシック音楽に馴染みの深いより年齢層高めの読者ならば、ベートーヴェンなどを中心に論じる第三章「過去の現前」をひもとくのが近道に違いない。どの章においても、「音楽は、音楽そのものというよりも、それを演奏する(語る)人間を介在して、はじめて力を持ちうるのだ」というクックの主張が、手を替え品を変え言い換えられているのだ、ということに気付けば、自分に馴染みの薄いトピックが語られていたとしても、その真意を掴むことはきっと難しくないだろう。学問としての音楽が人文科学のひとつとして扱われていることの理由は、それが「ひと」(人文の「人」)を介在しているため、ということを、素直にわからせてくれる入門書である。個人的には、音楽のあらゆる場面において顔を出し、幅を利かせてきた「オーセンティシティ」を相対化していくその論調に、クック自身の真骨頂、そして今後の学問が進んでいくべき道を見た思いである。

 おもえば、評者がそんな人文科学のジャンルとしての、学問としての「音楽」にはじめて触れるきっかけを得たのは、国際基督教大学に入学してから受けた音楽の授業でのこと。一般教養、「音楽の世界」というタイトルで開講されている授業を受け持っていたのが、他ならぬ金澤正剛先生であった(私の師匠なので、このあとも「先生」と呼ぶことをお許し頂きたい)。もう30年以上も前の話になるのが信じられないのだが、その最初の授業で、金澤先生は「音楽とは何か」「音楽の起源はどこまで遡れるのか」という話をして下さったことを想い出す。いままでそんなことを考えてもみなかった学生にとって、大学の学びとは何なのかを、ハッキリと思い知らされた瞬間、と言ってもよい。
 今回、金澤先生がご自身の集大成としてまとめられた『ヨーロッパ音楽の歴史』をひもとき、最初のページに目を通した瞬間、自分の記憶は一気に30年前へとタイムスリップした。まさに金澤先生が授業の場でしゃべっている、そのままの雰囲気が文面から伝わってくる。というよりは、ここに書かれている文章が、そのまま金澤先生の声で脳内再生されるような感覚に陥ってしまう。金澤先生を直接ご存じない方は、そんな脳内再生はされないとは思うが、それでもなお、この本の文章は次から次へと目に飛び込んできて、スムースに理解できる、そんな印象を受けられるに違いない。 それは、金澤先生がこの本を、ご自身の授業での語り口をそのまま書き起こすかのように執筆されているためである。先生のご専門である中世・ルネサンス、それにバロック時代を加えて全体の二分の一を占める分量となるので、とくに古典派以前の音楽的流れを知りたいと思われる方にとっては格好の入門書となるだろう。もちろん、それ以降の記述が手薄などと言うことはまったくない。とくに20世紀後半、いわゆる現代音楽の流れが詳しく書かれているのは、金澤先生ご自身がこの時期にハーヴァード大学に留学され、その時代の雰囲気を、身を以て味わっておられたことの証左に他ならない。
 いずれにせよ、自身の中世・ルネサンス期の知識は、金澤先生に授業で教わったときのそれをまったく超えていないなあ、と、反省しきりの読書タイムであった。たとえばヘンデルのオラトリオが後世に与えた影響についても、それが実質的には演奏会形式によるオペラであり、新しい解釈によるオラトリオの形を定着させた、とする、常に新しい知見に基づいた明瞭な説明を与えようとする姿勢に、頭を下げずにはいられない。金澤先生のように、そしてクックのように、「音楽とは」、と大上段にかまえて自分が語れる日は永遠に訪れないとは思うが、それまでは、日々謙虚に学び続けるよりないだろう。金澤先生もお薦めの『音楽アナリーゼのための実践ガイド』は、信頼のおける音楽用語集もさることながら、音楽を分析する際、なにに注目すべきか、どのようにときほぐせばよいのか、その指針を教えてくれる参考書として、常に手の届くところに置いておきたい、まさに「ガイド」である。インターネットでわからない言葉をググるよりは、はるかに信頼に富む知識が得られ、音楽分析には縁のない多くの読み手にとって、クックや金澤先生の著作でわからない専門用語が出てきたときにも、きっとその答えが記されているはずである。

※この記事は2023年1月に掲載致しました。

ご紹介した本
音楽とは ニコラス・クックが語る5つの視点
 

 

音楽とは
ニコラス・クックが語る5つの視点

ニコラス・クック 著/福中冬子 訳

オクスフォード大学出版局の入門書シリーズ『Very Short Introductions』のひとつ『Music』第二版(2021年刊行)の翻訳書。演奏実践の研究を通じた音楽史記述で知られる音楽学者ニコラス・クックが、西洋の音楽伝統にとどまらない様々なイシューを平易な文体で紹介し、リアルな人びとがリアルな世界で創り出す「諸音楽」を考えるための5つの視点を展開する。キーワードは、文化実践としての音楽、ベートーヴェン、初音ミク、楽譜と録音、オーセンティシティー、スター文化、世界音楽、音楽と共同体、SNS、ディジタル・テクノロジー、グローバル化、ポストコロニアル主義、など。翻訳は東京藝術大学音楽学部教授・福中冬子。
芸術や歴史の知識・教養は言うまでもなく、今の時代に求められている「疑う力・問題発見能力=情報リテラシー」を身につけるための格好の1冊。レポート作成や自由研究のテーマ選びに、ゼミでのディスカッション用テキストに、読書会の題材に、手始めの1冊として役立つ。


ヨーロッパ音楽の歴史
 

 

ヨーロッパ音楽の歴史

金澤正剛 著

『キリスト教と音楽』『古楽のすすめ』がロングセラーの著者、待望の新刊。広い音楽ファンに向けた、国際的活動豊かな日本人研究者による音楽史。従来の音楽史本は概論・定説による教科書的なものが多かったが、本書は著者の長年の研究から導き出される豊富な知識、独自の視点・推論を軸として一歩も二歩も踏み出した内容で、未来への橋渡しとなる。著者の専門のキリスト教音楽については、ヨーロッパ音楽の基礎として音楽史の流れの中で、とくに充実してわかりやすく書かれている。古代、中世、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、ロマン派以後という分類が一般的な歴史区分について、長年の研究に基づく見解から独自の考え方による区切り目を示し、時代の変換期の記述が興味深く展開する。研究者のみならず一般のクラシックや音楽ファンに向けて著者によるヨーロッパ音楽史の体系・構造を示すことで、各時代の音楽の新たな魅力を再発見でき、聴いてみたくなるのは必至。


音楽アナリーゼのための実践ガイド 実習 図説・音楽用語集 図表
 

 

音楽アナリーゼのための実践ガイド
実習 図説・音楽用語集 図表

ナジ・ハキム、マリ=ベルナデット・デュフルセ 著/野平一郎 日本語版監修/野平多美、伊藤靖浩、横川晶子 訳

1991年の出版以降、フランスの各音楽院で多くの教員や学生が信頼を寄せる「アナリーゼ(分析)」に関する手引書の、待望の日本語版。約700語からなる「音楽用語集」も収録。音楽をどのように理解するか、を重視し実際の楽曲を例にしながら手ほどきしてゆく。校正協力として携わっていただいた金澤正剛氏いわく、本書は「音楽史でも、音楽辞典でもなく、音楽作品を分析するにあたって何をすべきかを具体的に示してくれるガイド」である。
 第1部では旋律、和声、リズムなど、さまざまなアプローチからの分析例を示す。第2部は「音楽用語集」が、さらに第3部にはアナリーゼに不可欠な、旋法や和声学の基礎や、オーケストラで使われる楽器一覧など12の図表が収められている。日本の読者のために、フランスで長く音楽教育に携わってきた原著者の意向を汲んだきめ細かな注釈も充実し、独学で学ぶ学習者も教科書として使用しやすい作りになっている。


 

その他のWEBコンテンツはこちらからどうぞ