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広瀬 大介

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

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第41回 スカルラッティ研究の第一人者による伝記&資料

 時代を作り出す天才が同じ年に生まれる、という偶然がときどき起こることはつとに知られている。ヨハン・ゼバスティアン・バッハとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが、同じ1685年に生まれている、というのが、もっとも有名なところだろう(ついでながらヴェルディとワーグナーが1813年生まれ、というのも偶然にしてはできすぎている)。
 だが、このバッハとヘンデルと同じ1685年に、もうひとりの天才が生まれている、ということを知るひとははるかに少ないのではないか。その三人目の天才が、ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)である。バッハ家と同様、音楽家一家を成すアレッサンドロの息子としてナポリに生まれ、若き日はヴェネツィア、ローマで活躍した。1719年、ポルトガル王室礼拝堂の音楽監督としてリスボンに渡り、同地でマリア・バルバラ王女を教育。やがて1729年に王女がスペイン皇太子フェルナンドへと嫁ぐと、王女あらため王妃から絶大な信頼を得ていたドメニコもマドリードへ移り、同地で音楽家としての活動を継続した。
 その名前がはじめてひとびとに知れ渡ったのは、同地で編纂された鍵盤作品集が出版されはじめた1740年代以降のことである。この段階で50歳を優に越えており、本格的な活躍と名声の確立はその後なのだから、大器晩成、遅咲きの天才という言葉は、まさにこのひとにこそ当てはまるだろう。このマリア・バルバラという、人格的にもすぐれた王妃の絶大な信頼を得ることで、ドメニコは数多くの霊感を享受し、数多くの作品を世に送り出すことが可能となった。
 さらには、宮廷に絶大な影響力を行使したカストラート歌手、ファリネッリとの友情も、ドメニコによい影響をもたらしたであろう。精神的に弱い国王にはみずからの声で癒やしを与えつつ、清廉潔白な態度を貫き、目下の人間には思いやりを忘れないファリネッリのすぐれた振る舞いがあってこそ、スペイン宮廷の芸術は護られたのだから。

 ひとりの作曲家の活動を眺め渡すには、とくにその作曲家が我々の生きる時代から離れれば離れるほど、すぐれた研究者による導きの手が不可欠となる。その成果は、多くの場合、作品目録という目に見えるかたちで表れ、後世の我々はその膨大な作業を伴った仕事に直接の恩恵を被っている。ハイドンにホーボーケンが、モーツァルトにケッヒェルが、シューベルトにドイチュがいたように、ドメニコ・スカルラッティにはラルフ・カークパトリック(1911-1984)がいた。
 自身もすぐれた鍵盤楽器奏者として活動を続けたカークパトリックは、学者的な気質をも多分に持ち合わせていたようで、数多くのフィールドワークを重ね、手書きで収集した楽譜が山を成していたという。戦後まもなくとなる1953年には本書の初版が公刊され、以後1955年に再版され、1982年にはそれ以降の四半世紀に及ぶさらなる研究成果が大幅に追加された。
 本書は、前半が微に入り細に入るドメニコの伝記、後半がドメニコのハープシコード、和声、ソナタについての音楽学的見解、そしてスカルラッティ家や楽器に関する文書、装飾法、そして膨大な作品目録を含む付録、という三つの部分から構成されている。資料として参照する際には万全の情報を提供してくれるだけでなく、通読しても面白い。めったに見ることのできない、このような双方の要素を兼ね備えた著作のすぐれた価値は、どれだけ強調してもしすぎるということはないだろう。
 近年では、こうした基礎的文献(二次資料)の手堅い飜訳が続いている。将来的な研究の進展にとって、この種の飜訳が積み重ねられていくことは大変重要なことであり、研究者のみならず一般のファンにとっても重要な著作を目にする機会が少しでも多くなることは本当に喜ばしい。なにより、歴史のひとこまの中に埋没しがちな作曲家が、ひとりの人間としていきいきと立ち上がるさまを眺めることが、このような名著をひもとく歓びでもあるのだから。

※この記事は2020年3月に掲載致しました。

ご紹介した本
ドメニコ・スカルラッティ
 

 

ドメニコ・スカルラッティ

ラルフ・カークパトリック 著/原田宏司 監訳/門野良典 訳

本書は1953年にアメリカで出版され、1975年に全音楽譜出版社から邦訳(千蔵八郎訳)が出版されたが、現在絶版である。今回は、原著者が亡くなる直前の1983年の最終改訂版に依拠した全面新訳であり、原書では巻末にまとめられていた追加と訂正も、本文の該当箇所に挿入した。ドメニコ・スカルラッティは、近代的な鍵盤奏法の確立者としてその名を知られているが、その生涯は多くの謎に包まれていた。本書では、空前の研究調査でその謎に迫るとともに、残された全555曲のチェンバロソナタの分析を通して、その全体像を初めて明らかにしている。資料的価値が高く、カークパトリック番号・ロンゴ番号両方から見たソナタ一覧表や、スカルラッティの家系図も付いている。


 

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