第30回 和声教科書――実践から理論がわかる
学生時代、和声をもっと真面目に、本格的に勉強しておくべきだった、と、いまさらながらに後悔している。ルールの体系がかなり複雑ではあるものの、一種のパズルかなにかだと思って取り組んではいた。が、もともと数学的思考能力が乏しいわが脳味噌には負担が大きすぎたのでもあった……。いま、学生に教える身分になって、ようやくそのルールを諸々思いだし、泥縄で復習し、わかったような顔をして教えていることに、良心の呵責を覚えないではない(学生の皆さん、本当にごめんなさい)。
筆者が中学生・高校生くらいの時代、和声の学習と言えば、赤・黄色の表紙で有名な『和声:理論と実習』I、II、III、別巻(島岡譲執筆責任)、通称「芸大和声」しか実質的な選択肢はなかった。ひたすらこの教科書で反復練習をしていた中高生時代を過ごした筆者にとって、(これはすでに以前のエッセイ でも書いたが)大学に入ってから、はじめてウォルター・ピストンの『和声学』に触れたときの衝撃は大きかった。このときはじめて、ただのパズルにしか過ぎなかった和声と、実際の楽曲がしっかりと結びついたのだから。これならもっと和声が実体を伴ったかたちで頭に入ったのに!と思ったことしきりであった(時すでに遅し……)。
このような内容であるからには、今回紹介する書籍の大部分を執筆し、日本における和声学の教育メソッドを確立した立役者として、島岡譲(しまおか・ゆずる)氏を紹介しないわけにはいかないだろう。1926年(大正15年)生まれ。終戦直後、1947年に東京音楽学校で作曲専攻研究科を修了し、54~55年にはパリ音楽院に留学。50年から40年以上にわたって国立音楽大学や東京芸術大学で教鞭を取りながら、日本における作曲の教育に尽力した。現在日本を代表して活躍する作曲家の多くが、氏の薫陶を受けたと言っても過言ではなかろう。
「芸大和声」は、プロの音楽家を目指そうとする学生に向けた和声学の教科書として、同大学で長年用いられつづけてきた。これは和声の約束事、数学でいうところの公式を淡々と記した教科書であり、それを反復学習によって記憶に定着させることを目的としている。
だが、和声学とは、いうまでもなく、18世紀以降の実際の楽曲でどのように用いられてきたかを体系的に学習し、理解し、響きとともに記憶に定着させることで、ようやく血肉になるものでもある。島岡氏も当然その問題意識は共有していたはずで、『和声のしくみ・楽曲のしくみ』『和声と楽式のアナリーゼ』の2冊は、実際の譜例をふんだんに用いつつ、より多様な側面から、和声の実際の用法を学習者に理解させる目的のもとに執筆されている。もちろん、この2冊では、どちらも作曲を専門に学ぶような学生や研究者向けではなく、もう少し一般の音大生や一般の音楽ファンが想定されているのだろう。とはいえ、前者には和声運用の定義についての補足的な説明などはとくになく、「芸大和声」のエッセンスといった趣が強い。音楽を専門として学ぶひと以外が、一読だけで内容を理解するのは難しいかもしれない。
このコラムをお読み頂いている方には、断然後者、『アナリーゼ』を先にお読み頂くようお勧めするのが、順番としては理想的だとおもう。学習できる和声のレヴェルも、ナポリのII度、ドリアのIV度程度までと初級レヴェルにとどめられており、比較的読み進めるのは容易なはず。何より素晴らしいのは、本書の末尾に、典型的なソナタ形式(ベートーヴェン 《ピアノ・ソナタ》作品2-1)、ロンド形式(ベートーヴェン《ソナチネ第6番》)、ロンド・ソナタ形式(ベートーヴェン《ピアノ・ソナタ》作品13)の実例を示した上で、それらを和声的に分析し、ハッキリとその構造を示して、作品の全体像を丁寧に解き明かしてくれている点である。理論を実践にうつしている本書のようなアプローチがあれば、音楽が成り立つ構造をさまざまな方法で捉えることも可能だろう。
この「芸大和声」をもとにしつつ、その他の国での教え方などを参考にしつつ、さまざまな工夫を施した新世代の教科書も生まれている。『明解 和声法』上・下は、大阪音楽大学での和声の授業をもとに編纂され、規則の羅列になりがちな和声の教科書に、その規則が成り立つ由来を可能な限り説明し、実習課題もかなり小刻みに配置している。和声進行における定型、VI → III → II → V → I を、『しくみ』では円環で説明しているのに対し、『明解』では楽譜+矢印で表現し、より和声そのものの進行をハッキリと図示しようとする姿勢が目立つ。実習課題もより多く挟み込み、より授業の場で実用的に使おうという意気込みを感じる。
教える立場としては、理論と実践がほどよいバランスで両立し、順を追って、無理なく学習者が理解できるような、工夫を凝らした教科書が登場してほしい、と切に望んでいる。ひとつの教科書だけで完結させるよりは、いくつかの教科書を組み合わせて使うのが理想的なのかもしれず、教師によって理想的な教え方は千差万別であろうが、それでもなお、よりよい教え方への探求は続けていかねばならない……。一生勉強するしかないですね。
●今回取り上げられた書籍の他に、和声の教科書としては、第10回で『実用和声学』(中田喜直著)、第25回で『名曲で学ぶ和声法』(柳田孝義著)が紹介されています。
※この記事は2016年1月に掲載致しました。
名曲で学ぶ和声法
名曲の譜例をもとに和声法を学ぶことのできる画期的な一冊。本書は、音楽大学や教員養成課程で和声法を学ぶ学生の多くが、実際の音楽で和声がどのような役割を果たしているのか、なぜ和声法を学ぶ必要があるのかを十分に理解することなく、規則や禁則を覚えて課題を実施することのみに終始しているのではないか、という視点から生まれた。掲載されている譜例は、どれも一度は耳にしたことがあるだろう名曲ばかり。学習者が耳で直接和声の変化を感じることができるよう、演奏形態にかかわらずすべての譜例がピアノで演奏できるようになっている。全体は第1部基礎編と第2部実習編からなり、第2部の各章には練習例題とその参考実施例、さらに実習課題が用意されている。巻末には実習課題の実施例集も掲載されているので、学習のための手助けにして欲しい。『名曲で学ぶ対位法 書法から作編曲まで』の姉妹書。