専門書にチャレンジ
広瀬 大介

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

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第12回 「作品の魅力をいかに伝えるか」――それぞれの工夫が冴えるスコア解説

 本欄をお読み頂いている読者の皆様で、いわゆるオーケストラ用の「総譜」、それもポケット・スコア、ミニチュア・スコアと呼ばれるものに、日常的に接している方はどのくらいいらっしゃるのだろうか。筆者の貧困な想像力を働かせてみても、プロ・アマのオーケストラ関係者、あるいは研究者や一般のクラシック・ファンくらいしか思いつかないのだが。基本的にこの手の楽譜は、そもそもある程度楽譜を読める人でなければ手に取ろうと思わないであろう。いずれにせよ、専門性の高いものであることは間違いない。

 だが、そんな専門性の高いものを、今回は万人向けにわかりやすく書評せねばならないのである! 西洋音楽史の回でも述べたが、専門性の高いものを、そのまま専門性高いままに解説するのはそれほど難しいことではない。井上ひさしではないが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく」伝えるのは、筆者のような浅学菲才の徒には荷が重い。
 ・・・などと愚痴を言ってもしょうがないので、今回も至らぬなりに頑張るか。ある作品のスコアを買ってみようという動機が生まれるというのは、やはりその曲、あるいは作曲家に対して相当の思い入れがあることの証左でもある。音楽ファンであれば、愛する曲を知るためには、実際の楽譜にあたり、作曲家が楽譜に込めた息吹を知りたい、と思うのは自然の流れであるはず。であれば、尋常ならざる量のオタマジャクシを前に、それがどのような基準に従って配列されているのか、ということを知るための、いわば「旅行ガイド」にあたるものは当然必要であろう。

 そこで、いわゆる「曲目解説」というものの出番となる。読者の皆様が普段この種の解説に出会うのは、圧倒的に演奏会場だろう。実はこの演奏会場で配られる(あるいは購入する)解説には、基本的に様々な制約がつきまとう。まずは文字数の問題。オーケストラの定期演奏会の場合、一部の例外を除き、原稿用紙にして10枚、4,000字がほぼ最大のラインである。普通は6~7枚、2,400字の中に、約3曲分の解説を押し込まねばならない。そして譜例の問題。大抵の場合、「演奏会にいらっしゃるお客様全てが楽譜を読めるとは限らない」という前提の下、そして楽譜の浄書に時間とコストがかかる、という実際上の問題もあり、演奏会場で配られる解説に楽譜は含まれないことがほとんどである。
 かくして、演奏会の曲目解説を担当する執筆者達は、言葉の力だけで音楽について説明せねばならないという苦行を強いられることになる。作曲の経緯、初演情報など、文字だけで伝えられる情報はまだよい。執筆者の誰もが大なり小なり困るのは、そこで演奏される音楽の実際を、極度に限られた文字数で、楽譜の助けを借りることなく、難しい専門用語も使うことなく描写せねばならないこと。筆者もさまざまな演奏会用の解説を手がけてきたが、この難問をうまく解けた、という手応えを如実に感じられたことは、ただの一度もない。と、この場を借りて白状し、お詫びしたい。音楽を言葉で語ることの可能性・不可能性という議論については、脱線甚だしくなりそうなので、いまはここまで。

 ・・・賢明な読者諸賢は、筆者がこの後、「だからこそポケット・スコアのような媒体で、文字数の縛りも、譜例の縛りもなく、音楽について執筆することができるのは素晴らしい」という論旨を展開するのだろう、と考えられるかもしれないが、実はそうではない(!)。この命題も決して真実ではないと思う。縛りがない状態、すなわち「何をどれだけ書いてもいいですよ」という状態で原稿を依頼された場合(実はこのエッセイもそうだったりします)、書き手は与えられた自由の過剰さに惑い、惑ったあげくに、結局自らで縛りを設定したうえで、読者を飽きさせない解説を書かねばならないのである。「文字数縛り」「譜例使えない縛り」よりも、自分で縛りを考えねばならない分、ハードルは高いのである。嗚呼。
 ここ数年、音楽之友社が、独自に楽譜を組むところからはじめている一連のミニチュア・スコア。そのスコアの解説を手がけている諸氏は、「いかにしてこの作品の魅力を伝えるか」「いかにして音楽に隠された秘密を白日の下に晒すか」を、それぞれの工夫と共に、自らに「縛り」を課しながら伝えようと努力されている。まず注目すべきは、ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第2番》で、作曲家として、演奏家としての知見を充分に披露している野平一郎氏のそれであろう。野平氏は解説の大部分を曲の詳細な分析に費やし、その主題同士の関連性を、豊富な譜例と共に論じ尽くしている。コンポーザーにしてパフォーマー、両者を兼ね備えた視点からラフマニノフの作品を徹底的に「解剖」してみせる氏の筆致は、縦横に冴え渡る。その明晰な文体の故に、読み手はどの部分を指した説明かを見失うことがないため、多少難しい専門用語が使われていたとしても、むしろその用語が音楽のどの部分を、どういう現象を指すのかを、音楽そのものから学ぶことさえできるのだ。第3楽章のロンド形式がちょっと変形され・・・、などという話から、本来のロンド形式はどういうものかを学ぶことができる解説など、滅多にお目にかかれるものではない。
 ここで取り上げているスコアの解説を執筆しているのは、いずれも日本の第一線で活躍される音楽学者の方ばかり。その筆致と解説はそれぞれの個性を反映するものだが、曲の本質をとらえ、ガッチリ離さない点では共通しており、現代の新しい作品研究がどこまで進んでいるのかを、専門的な論文を繙(ひもと)くことなく知ることができる絶好の読み物でもある。メンデルスゾーン研究の第一人者である星野宏美氏は、《交響曲第3番》解説中に譜例こそ使わないものの、豊富な小節番号の提示と、楽曲形式を表で示すことによって、必要な情報を過不足なく提示している。また、巻末にメンデルスゾーンのスコットランドへの旅の詳細を別途綴ることによって、この作品が遠く悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアート(シラーの戯曲、そしてドニゼッティのオペラでもおなじみ)に由来するものであることもわかる。他に例を見ないこうした独自の工夫によって、曲に対する理解はいや増すことだろう。
 ベートーヴェンの交響曲を担当するのは《第6番》が土田英三郎氏、《第7番》が沼口隆氏。以前もベートーヴェンの稿で、このひとの音楽には人を徹底的に「分析したくなる」欲求へと駆り立てる何かがある、という旨を書いたが、まさにその意味で、ここでは二人の専門家が本格的な分析を試みている。これほどまでに尽きせぬ泉のような魅力が、いまだベートーヴェンの音楽には宿っているからこそ、研究者も聴き手もその魅力を探ろうと、今なお躍起になるのかもしれない。《第7番》には、ワーグナーが語ったという有名な、そして謎めいた惹句である「舞踏の浄化Apotheose des Tanzes」への言及がきちんとあるのも嬉しいところ。
 分析に全力投球したくなるベートーヴェンとは対照的に、チャイコフスキーの《交響曲第5番》を取り上げる森垣桂一氏、シベリウスの交響詩《フィンランディア》《アンダンテ・フェスティヴォ》を取り上げる神部智氏の筆致は、曲の成立背景にも目配りが行き届き、その過程からも曲の魅力を語り尽くそう、という思いが行間から溢れている。とりわけ、祖国への愛を吐露したといわれる《フィンランディア》のどの部分に、どのような「思い」が込められているのか、その改訂の過程から説き起こす筆者の説明からは、曲そのものの魅力がおのずと伝わってくるようだ。

 もしあなたが、スコアの中に溢れかえるオタマジャクシに過度の不安を持っていたとしても、是非一度このスコア群を手にとって、その充実した解説に目を通すところからはじめてみてはいかがだろう。隗より始めよ、千里の道も一歩から、である。ただ、もちろんのことながら、解説だけで充足することなく、CDを聴きながら楽譜を眺める行為も、是非忘れないで頂きたいと思う。幾多の言葉を尽くしても、なお説明しきれぬ圧倒的な力が、楽譜の中には、そして音楽そのものには宿っており、それこそが、我々が音楽を聴く究極の、根源的な理由でもあるのだから。こんなに言葉を連ねても、言いたいことはたったそれだけなどというこのエッセイなど、音楽の前にはなすすべもないのだから(!)。

ご紹介した本
ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調 《田園》作品68
 

 

ベートーヴェン 交響曲第6番ヘ長調 《田園》作品68

土田英三郎 解説

演奏、録音、鑑賞ともに多くの人に親しまれている名曲である。これらの曲はいずれも音楽史、または交響曲史上、革新的な作品として位置づけられ、その新しさばかりが強調される傾向にあるが、伝統との結びつきもまた見過ごせない。「新しさ」は「過去」との関係においてこそ輝くとする。6番は18世紀に流行したパストラーレ(田園詩/牧歌)との関わりが特に強く、それだけにベートーヴェンの新しさがひときわ目立つ。表題交響曲の歴史ではきわめて重要な節目となる作品であり、ベルリオーズをはじめとする19世紀の作曲家に多大な影響を与えた。



 
ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調 作品92
 

 

ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調 作品92

沼口隆 解説

第7番は、初演当時からもっとも好評を博したベートーヴェンの交響曲であり、現在でも屈指の人気を誇る傑作。作品のスケッチは1811年9月ごろまで遡り、性格の異なる双子作品である第8番とともに作曲が進められた。初演は1813年12月8日、ウィーン大学講堂における傷病兵のための慈善演奏会で、作曲者自身の指揮によって行なわれた。熱狂する聴衆の求めによって、第2楽章が繰り返されたのは有名なエピソード。ワーグナーがこの曲を「舞踏の神格化」と評したことも、しばしば引用される。



 
チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調 作品64
 

 

チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調 作品64

森垣桂一 解説

『悲愴』に続くチャイコフスキー交響曲のリニューアル第2弾(第4番はライセンス版で刊行済み)。楽曲解説の執筆は、国立音大教授・森垣桂一。作曲家として実績を積んだのち、改めてサンクトペテルブルク音楽院でチャイコフスキーやラフマニノフなどを集中的に学んだ。これまで論じられることのなかった新しい視点――ロシア古典建築様式や、ヨーロッパ音楽のさまざまな構成法、さらには民衆の憧れの的だった劇場芸術や、ロシア正教の「声」に対する考えなど――を盛り込みつつ、チャイコフスキーがいかに新しい交響曲の系譜を作り上げていったかを詳細に論じる。



 
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18
 

 

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調 作品18

野平一郎 解説

1897年の交響曲第1番初演を酷評されたラフマニノフは、しばらく作曲の筆を取ることができなかったが、精神科医ダーリの暗示療法が効を奏して、長いスランプから立ち直ることができた。その記念碑的作品がこの曲である。初演は作曲者自身のピアノ、ジロティの指揮によって1901年11月にモスクワで行われた。解説は、ミニチュア・スコア初登場の、野平一郎による。まさにラフマニノフと同じ作曲家であり、ピアニストである立場から、人々の心に忘れがたい印象を残す、この愛すべき作品の魅力を、精緻な楽曲分析を踏まえて縦横に解き明かす。



 
メンデルスゾーン交響曲第3番イ短調 作品56
 

 

メンデルスゾーン交響曲第3番イ短調 作品56

星野宏美 解説

メンデルスゾーン:交響曲第3番 イ短調 作品番号56 MWV N18。通称「スコットランド」。メンデルスゾーンが生涯に完成させた最後の交響曲だが、第4番「イタリア」、第5番「宗教改革」の両曲がこれより早い時期に完成されたものの没後に出版されたたために、出版順によって「第3番」の番号が付けられた。通称は、この曲を着想したのがスコットランド旅行中だったことに由来するが、作曲者自身によるものではなく、没後に用いられるようになった。4つの楽章は休みなく連続して演奏されるよう指示されている。



 
シベリウス 交響詩 フィンランディア 作品26 アンダンテ・フェスティヴォ
 

 

シベリウス 交響詩 フィンランディア 作品26 アンダンテ・フェスティヴォ

神部智 解説

シベリウスの数ある作品のなかでも、もっとも人口に膾炙し、吹奏楽版への編曲や歌詞を伴った準国歌として親しまれている作品と、作曲家の創作期最晩年に書かれた小品を組み合わせて刊行。「フィンランディア」はロシアの属領化政策に抵抗して企画された民族的歴史劇のための音楽。のちにパリで開催された万国博覧会でヘルシンキのオーケストラが演奏して、注目を集めた。一方、「アンダンテ…」は、交響曲第6番・第7番と作曲時期を同じくし、オリジナルの弦楽四重奏曲から作曲者自身が編曲した弦楽合奏版は、ニューヨークで開催されていた時の万博で全世界へラジオ中継された。解説は、気鋭のシベリウス研究者、茨城大学の神部智。


 

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