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広瀬 大介

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

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第47回 凝縮されたバッハ評伝とバッハに魅せられた音楽家たち

 最近の音楽之友社刊行本の中で、もっともお世話になっているのが、今回紹介する〔作曲家◎人と作品シリーズ〕であることは間違いない。前半の「生涯篇」では、あらゆる有名音楽家の生涯が最新研究を交えて簡潔かつ丁寧に叙述され、後半の「作品篇」で重要作品について別立てで説明されるスタイルは、全巻で統一されている。作曲家の通史は、どうしても作品の内容や評価を間に差し挟むかたちになりがちなため、この独自の工夫が本シリーズの読みやすさに貢献しているのはまちがいない。私も、学生がとある作曲家について学びたいと言うときはまず、現代の名だたる研究者が精魂を込めて書き上げたこのシリーズから読むことを勧めるのが常である。学生は親しみを込めて(その装丁デザインから)「赤白シリーズ」と呼び慣わし、さまざまに興味の幅を拡げ、自身の研究を深めていく。初学者のみならず、音楽を本格的に学びたいというひとにとっても、はじめに手に取るべきシリーズであろう。
 その最新刊として、最期に残された真打ち、というべきバッハが、ついに登場した。長年バッハ研究に携わるのみならず、音楽についての文章を書くためのコツや、楽曲分析の方法など、多岐にわたる著作を誇る久保田慶一氏ならでは、というべき筆致があちこちに窺える。ひとりヨハン・ゼバスティアン・バッハの伝記というだけにとどまらず、「生涯篇」冒頭にはバッハ一族の家系図と来歴が置かれ、これまでのバッハ研究の道のりが示され、その受容の変遷が一望できるようになっているところなどは、本シリーズでもなかなかみられない新機軸であろう。同様に、「生涯篇」の最後には没後の遺産相続と息子たちの活躍についても述べられている。全体的にバッハの経済的側面についてかなり踏み込んだ考察がみられるのも、多岐にわたる関心領域を誇る著者ならではの問題意識であり、新たな視点を数多く得ることができる。子だくさんの働き者であったバッハが、いかにして一家を養い、いかにして音楽家としての立場を護っていたのか、あらゆる角度からこの人物を眺めることで、あたかも人物がいきいきと動きはじめるような、そんな錯覚にすら陥る。
 バッハの生涯は、これまで数多く積み重ねられてきた伝記においても、暮らしていた都市(アルンシュタット、ヴァイマール、ケーテン、ライプツィヒなど)でその活動を区分するのが通例であり、本書でも「生涯篇」冒頭と最後の章を除いてはその方法に従っている。とくに、その活動が多岐にわたるライプツィヒ時代においては、数多くの「顔」を持つバッハを、その顔ごとに切り分けて叙述するスタイルが目を惹く。トーマス教会のカントル、あるいはコレギウム・ムジクムの指揮者、作曲家・オルガニスト等に分けられており、複雑な人間関係や活動の実態が図解や年表によってわかりやすく整理されている。バッハのことをこれから学ぼうとする初学者はもちろんのこと、バッハには一家言あるという向きにも、きっと新たな発見となるような記述に巡り会うはずである。
 本書のもう一方の核となる「作品編」については、紙幅の都合もあったとは思うが、個々の作品解説は超有名曲に限られ(作品一覧表の備考欄で相当量の説明をもって補っている)、それ以外については同ジャンルの曲目がある程度まとめられた概説となっている。多種多様な作品群をその意義とともに一望する、という意味では、これ以上コンパクトにまとめられた解説の類例は少ないはず。現時点での最新研究を踏まえた年表や参考文献、デジタル・アーカイヴの所在とその使い方など、バッハをより深く識りたいと考えるひとたちにとって、必須の内容を兼ね備えている。
 だれもが知る巨匠の足跡をコンパクトにまとめるとなれば、該博な知識はもちろんのこと、それらを有機的に結びつけ、ひとつの全体像として提示するだけの力量が必須となる。まさにそんなバッハの全体像を過不足なく描き出しているという意味で、久保田氏の成し遂げられた仕事の大きさには、感嘆の言葉しか浮かばない。

 バッハのカンタータ全作品演奏・録音という偉業を達成し、なおもその先へと歩みを止めぬ鈴木雅明氏。バッハの音楽の神秘にとらわれ、その真理を求めてやまないひとりの音楽家の姿に、どれだけ多くの聴き手が救われ、勇気づけられてきたことだろう。バッハ・コレギウム・ジャパンとの長年の歩みを通じ、そのプログラムに営々と書き綴ってきた本人の言葉がまとめられた『バッハ、神と人のはざまで』をひもとけば、そんなバッハの音楽にもふたつの側面がある、という著者の想いに気付かせてくれる。ひとつはカンタータや受難曲のような「地に足のついた毎日の生活に属する」音楽、もうひとつは、《クラフィーア練習曲集第1巻》のような、「永遠に残ってほしい非日常を目指した」音楽である(同書111頁)。誰よりも長い時間、バッハの音楽に触れてきた著者だけが目の当たりにした景色を、このようなかたちで垣間見せてくれることで、読み手たる我々も、遙か彼方にその同じ風景を眺めることができる。そのお裾分けに与る幸せを噛み締めたい。

 近年では、古典派の作曲家もまた、半世紀前に活躍した巨匠から数多くのことを学んでいたことがあきらかになっている。モーツァルトがスヴィーテン男爵を通じてバッハやヘンデルに触れていたことはひろく知られているが、越懸澤麻衣氏による『ベートーヴェンとバロック音楽』では、ベートーヴェンもまた、そのスヴィーテン男爵や、生涯の友であり、弟子であり、パトロンであったルドルフ大公から、先人の精髄を学ぶ機会を得ていたことが明かされる。《ハンマークラヴィーア・ソナタ》作品106や、弦楽四重奏曲《大フーガ》作品133に含まれるフーガが、バッハを学んだ知識をもとにして生まれたことは想像できるが、それが具体的にどのような手法であったのか、楽譜をもとに解き明かす著者の筆致は明瞭であり、同時にミステリー小説を読み進めていくときのようなワクワク感すら感じることができる。ベートーヴェンを愛してやまぬ方はもちろん、バッハ好き・ヘンデル好きにも本書をひもといて頂き、大作曲家同士をつなぐ大河のごとき音楽史の流れを追体験して頂きたい。

※この記事は2021年10月に掲載致しました。

ご紹介した本
〔作曲家◎人と作品〕バッハ
 

 

〔作曲家◎人と作品〕バッハ

久保田慶一 著

高校生から一般音楽愛好家を対象に定番となった、大作曲家の伝記シリーズ22作目として、待望のバッハ伝登場! 既刊『バッハの四兄弟』が好評の著者が、最新の研究成果を反映し、バッハ像の「アップデイト」を試みる。
本シリーズの既刊は生涯篇、作品篇、資料篇の3部構成だが、本書では冒頭に「本書を読むために」を追加、基本的な用語(プロテスタント、音楽家の職業、楽譜等の種類)などを丁寧に解説する。生涯篇の序章「歴史と現代におけるバッハ」ならびに第六章「バッハの死後から現代まで」のふたつの章では、バッハが生きた時代や社会といった背景やバッハの遺産と現代につながる受容史をまとめている。こうして歴史と現代をクロスオーバーさせながら、本書はバッハの「人と作品」を平易な文章で、現代の読者に語っている。

バッハ、神と人のはざまで
 

 

バッハ、神と人のはざまで

鈴木雅明 著

世界的バッハ演奏の第一人者、バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)音楽監督の鈴木雅明、待望の単著刊行!
作曲家自身を超え、より崇高な価値へと世界中で再創造され続け、人々を惹きつけてやまないバッハの音楽。その音楽と、そこから溢れ出る恵みを我々に届けるために、楽譜と睨み合い、心に去来した様々な断片――マタイ、ヨハネ、ロ短調ミサ、カンタータ、指揮、オルガン、旅……。
BCJファンが毎公演楽しみにしている定期公演プログラム「巻頭言」から、自身の著作集所収にふさわしい原稿を厳選。編み直し、書き下ろしの「キリスト教音楽 曲種ノート」やバッハの価値を改めて定義した序文(はじめに)、未公開写真などを加え、1冊の本としてまとめた。

〔作曲家◎人と作品〕バッハ
 

 

〔オルフェ・ライブラリー〕ベートーヴェンとバロック音楽
「楽聖」は先人から何を学んだか

越懸澤麻衣 著

ベートーヴェンは数々の「独創的な」作品を生み出した。だがベートーヴェンであっても、すべてをゼロから創り上げたわけではない――彼も多くの先人に学んでいた。
「真の天才はドイツのヘンデルとバッハだけです」(ベートーヴェンの手紙より)。当時、すでに古臭く感じられるようになっていたヘンデルやバッハの作品に、ベートーヴェンは並々ならぬ関心を示した。本書では、先人二人の音楽に対峙する楽聖の姿を追う。
その際に重要な観点として、ベートーヴェンが抱いていた、現代とは異なる「ヘンデル像」「バッハ像」を、演奏・楽譜出版から見てゆく(第1~3章)。続いてベートーヴェンが両巨匠の作品をスケッチ帳に書き写し、積極的に学んだ様子(第4章)、さらに両巨匠と関連の深いベートーヴェン作品(第5~9章)、未完のオマージュ(終章)を取り上げる。ベートーヴェンのバロック音楽研究に重要な功績を果たしたパトロンたちのコラムも。


 

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