菅沼 起一(すがぬま・きいち)
京都市出身。1991年生まれ。京都大学白眉センター特定助教、京都市立芸術大学・洗足学園音楽大学・京都女子大学・立命館大学非常勤講師・ピティナ音楽研究所協力研究員。専門は西洋音楽の歴史的演奏習慣(過去の即興演奏)、音楽理論史(記譜法)。東京藝術大学音楽学部古楽科(リコーダー)、同大学院修士課程(音楽学)、バーゼル・スコラ・カントルム(スイス)音楽理論科を経てフライブルク音楽大学(ドイツ)との共同博士課程を修了。2021年度日本学術振興会育志賞受賞。訳書にアン・スミス『理論家に学ぶ16世紀の演奏法』(共訳:坂本龍右、音楽之友社)。リコーダー奏者としても活動中。
第2回 古楽は「おもしろい!」なら、いかにしてその「おもしろさ」を伝えるか
はじめまして。音楽学者の菅沼起一です。専門は本日のテーマでもある「古楽」と呼ばれる時代の演奏法や楽譜の歴史です。西洋の五線譜は現代の日本でも音楽教育で広く用いられていますが、五線譜がどのような歴史で今の見た目やシステムになり、そして日本のような非西洋圏で用いられるに至ったのか、そして楽譜と演奏する身体とのかかわり、などについて考えたり調べたりしております。
私はジャンケンで言うといわゆる「後出し」をしており、今、この原稿はシリーズ第1回を担当してくださった山本さんの文章を開きながら執筆しています。私も、広瀬大介先生の「専門書にチャレンジ!」のコーナーはたびたび拝読しており、2023年に出版した訳書を(本当に素敵な文章で)以前コーナーでご紹介いただけたことを本当に嬉しく思っております。そんなコーナーを引き継がせていただけることはこの上なく光栄です。共に東京藝術大学で学んだ優秀な同世代の音楽学者と担当できることも嬉しく、往復書簡のお返事をしたためる気持ちでこの文章を書いています。
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「古楽」というものは、私が出会った頃とは比べものにならないほど日本国内で普及したように思える。古楽とは、例えば本日ご紹介する那須田務氏の『古楽夜話』(2023年)のあとがきには「古い時代の西洋音楽もしくは、それぞれの時代のスタイルの古楽器を用いた演奏」とされ、本書では中世から18世紀以前の音楽と、時代が区分されている。ただ、現在「それぞれの時代のスタイルの古楽器を用いた演奏」というアプローチは18世紀、いわゆるバロック時代より後の時代の音楽にも適応されている。個人的な所感を述べるのが許されるのなら、現在、古楽という言葉は「古い時代の西洋音楽」を指す用語としての意味合いが強まっているように感じる。例えばストラヴィンスキーやマーラーの音楽を当時の楽器や演奏習慣に立ち返って演奏する場合、それは「古楽器による」ではなく「ピリオド楽器による」と、「古楽アプローチ」ではなく「ピリオド・アプローチ」と呼ばれることの方が多いのではないだろうか。
では、古楽という言葉が含む時代とはどこまでか。私は自分の専門に引き付けて、西洋において現代の楽譜システムが確立する1700年ごろまで、と最近は考えている。これは『古楽夜話』で取り上げられている音楽の時代とも概ね一致するものであり、私はいわゆる「古楽」と「クラシック音楽」の違いを国語における「古典」と「現代文」とのようなもの、と説明することが多い。そもそも、現代のような誰でもチケット代さえ払えばコンサートで演奏を聴ける、という文化や、公教育の中で音楽が組み込まれていること、社会の中での音楽の位置付けや担い手・受け手の意味合いなど、古楽という時代の音楽は、現代の音楽文化とは異なるありようを見せている。学校の古典の授業が現代文よりも難解で取りかかりにくい、と思うのは至極当然のことである。古典を通して、現代とは文化・社会のあり方や言語のシステムそのものが異なる過去へとアクセスしているからだ。古楽にもそのような側面がある——ゆえに、紹介の仕方によっては「難解で取りかかりにくい」という印象を与えてしまう——ことはまったく否定も言いわけもするつもりはない。では、その魅力をどのように伝えるか? 『古楽夜話』は、その一つの形を提示している。『古楽夜話』では、12世紀のヒルデガルト・フォン・ビンゲンから18世紀のモーツァルトまで、60の音楽が作曲・演奏された当時の情景を小説仕立てにした導入から、具体的な楽曲の背景・構造、そして名盤などが紹介されていく。読者がイメージしやすい物語、最新の研究に基づく、そして音楽のより正しい像が読者の中で結ばれるような解説、さらには著者が欧州の音楽祭などでその音楽の生演奏に接した体験談まで、遠い過去の音楽に対しありとあらゆる導線が引かれている。過去の人の営みとして音楽を紹介するこの姿勢は、音楽の背後に聞き手であるわれわれと同じ人の姿を感じることができ、その「手触り」はまさに古楽というものが持つ魅力の一つだろう。
那須田氏のもう一冊『J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』(2023年)も、音楽の魅力をさまざまな角度から説明しようと試みた入門書である。本書は「もっときわめる! 1曲1冊シリーズ」の一つで、「人気は高いが全貌が掴みにくい、知っていてもさらに掘り下げ甲斐がある、いつか極めたい」曲を分かりやすく解説するための本である。本書はハンドブック的な分量ではあるが、単なる楽曲の構成や聞きどころ、演奏の手助けになる情報などを簡潔に紹介するだけではない。バッハの《無伴奏》を取り巻くさまざまな文脈——バロック時代のヴァイオリン音楽史、バッハの人生と《無伴奏》、バッハの周囲のヴァイオリン奏者、さらにはバッハ亡き後の《無伴奏》の伝承に至るまでの豊富な情報が網羅されている。また、譜例をあえて用いず言葉のみで解説していく姿勢も重要である。バッハの《無伴奏》を実際に演奏するヴァイオリン奏者のみならず、音楽を愛聴する方々への配慮も十分になされている。
紹介で特に力が入っている点が2つあり、1つは3曲の《パルティータ》(舞曲のセット)における各舞曲の説明である(第2章)。これは、《無伴奏》をより親しみやすい音楽として把握する一つの助けとなるのが、特に《パルティータ》における舞曲のアソートとしての楽しさ、舞曲の躍動感だからだろう。私の世代ではこうした《無伴奏》の舞曲としての楽しさ、は特に古楽演奏の文脈で市民権を得ていると感じるが、これには《無伴奏》がヴァイオリン音楽の「聖典」として高く価値付けられ、逆にその偉大な芸術作品としてのイメージが舞曲における原初的な音楽の喜びのようなものを覆い隠してきた演奏史があることにも由来している。
本書で特に力を入れているもう1つの点が、録音技術の確立以後に残る演奏史(録音)の要約である(第3章)。《無伴奏》の演奏は、20〜21世紀にかけてその演奏スタイルが大きく変化してきた。そのため、実際に《無伴奏》を演奏する人にとっても、その音楽を鑑賞する人にとっても、過去の演奏を理解する補助線としてこの第3章が非常に有益なのだ。そういう意味で、本書は『古楽夜話』と同様に簡潔でありながら、作品の理解へとつながるあらゆる導線を引いている。
こうした入門書のような、広く万人に伝える語り口というのが最も難しい、といつも痛感する。専門家として、自分の理解度に即してそのまま専門的に書きすぎるともちろん伝わらない部分もあるし、噛み砕くとどうしてもニュアンスが変わってしまい、間違った形で伝わってしまうこともある。那須田氏が2冊目のバッハ本で述べるように、ここで必要なのはやはり「想像力」ではないだろうか。どのような人に、どのように受け取られるか、あるいはどのように受け取って欲しいか——こうしたことに対する想像力や思いやりの心こそ、特に令和の世に求められていることではないだろうか。これは、第1回で取り上げられた音楽評論にも言えることではないだろうか。音楽とその良さを伝えるのは演奏そのものだけではなく、言葉も同様に大きな役割を担っている、ということを締めにして山本くんへお返ししたい。
※この記事は2026年7月に掲載いたしました。

