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広瀬 大介

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

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第17回 音楽表現とは何か。個性的な演奏とは何か。

 西欧という一地方の音楽が、ここまで全世界的な音楽の基礎として受け容れられている理由の一つに、「楽譜」という音楽のありようを記載する方法を発明したことが挙げられる、というのは、巷間よく言われるところ。そして最近では、その楽譜といえども完璧に作曲家の意図した音楽を再現できるものではなく、音量の強弱・テンポの緩急の表記には大きな弱点を抱えており、その限界をわきまえるべきである、というのもよく言われているところ。歴史的に見れば、楽譜という手段が、複雑化を極める音楽を紙媒体によって(デジタル機器が溢れる現在では紙媒体という前提さえ崩れつつあるが)ある程度のところまで正確に伝えることができるという事実は、我々が享受する音楽のありようを根本的に変えてしまうほどの衝撃を与えるに十分な出来事であり、実際そのように世の中を変えてきたのだった。
 楽譜が不完全にしか音楽のありようを伝えるに過ぎないものならば、演奏にあたっては、その不完全な部分を何らかの情報で補わねばならない(いや、楽譜に書かれていることだけで勝負すれば良い、という立場の人がいることを否定はしないが、ここでは措く)。楽譜に書かれていないことを補う、ということは、その作品を手がけた当時の作曲家が、自分の表現しようとする対象をどのような手段を用いて描いたか、楽譜以外の手段を用いて識ろうと試みることである。それはすなわち、作曲家がどのような言語を操り、どのような音楽的背景のもとで学び、どういう本を読み、どういうモノを食べ…、という無限の問いに答え続けることでもある。
 すなわち、楽譜に書かれていないことを識るとは、その作品が書かれた文化的背景を識る、ということである。その文化的背景が、自分の住んでいる地域と異なる場所であれば、その作業はより繁雑かつ広範なものとなるだろう。

 野村三郎氏が『ムジカノーヴァ』誌に「演奏とファンタジー」を連載されていた1995~97年当時、まだ大学生であった筆者は、ちょうどその時さらっていたショパンの《バラード》について、その背景を解説してある本連載が目に止まり、興味深く読み耽ったものである。その時のことを、今回ひさびさに単行本化された『「音楽的」なピアノ演奏のヒント』(現在絶版)を手に取った瞬間に、懐かしく思い出した。全4曲から成るバラードは、いずれもポーランドの詩人アダム・ミツキエヴィチの著作を下敷きに、ポーランド独立への秘めた、だが強い思いを表出したものだという。そして、19世紀初頭、ポーランドにおいてバラードという詩の形式は、そのほとんどが愛国的、戦闘的なものであり、祖国の独立達成の悲願を込めたものだという。
 《バラード第4番》は、「三人のブードゥリ」という詩を下敷きにしたと言われるが、野村氏も指摘するとおり、その詩の内容を忠実に、表題音楽的に移し替えたものではなさそうではある。野村氏は、このときショパンという作曲家の心の中に去来したであろう想いを、こんな言葉で綴っている。

 何かが芸術家の心を去来し、そこからその芸術特有の表現方法で姿を現す。その根はその芸術家の人生や時代と深く関わっていることは間違いない。だがその芸術をもっとわかりたいと思うあまり、他の表現手段へ置き換えて考えることは有効なこともあるが、時としてまるで違う理解に至る可能性もある。こうしたファンタジーは建築における足場のようなもので、仮にあったとしても建物が完成したら、取り去られるものだ。
 ショパンは「絵を完成させてゆくのは聴衆なのだ」と言った。つまりショパンも曲の完成を聴衆に(第三次的意味に)ゆだねていたのだ。(170頁)

 作品の背景・そしてその文化的背景を識ることはもちろん大切だが、そのことに拘泥して、音楽そのものに耳を傾けることなく演奏してしまっては本末転倒、という氏の主張は首肯すべき点が多い。楽譜以外、音楽以外からのアプローチには、常にこの種の危険がつきまとう。調べすぎてしまい、頭でっかちな音楽となってしまい、がんじがらめになってしまう。演奏にあたって知識として仕入れておくべき事項は当然あるが、それが作曲者の最終的な意図と思いすぎてはいけない。ごく当たり前のことのようではあるが、このさじ加減は実に難しい。そのあたりの機微をよくわきまえた氏の筆致は、常に読み手に対し、自制と省察を促すものとなっている。

 これに対し、ゲルハルト・マンテルは、『楽譜を読むチカラ』において、書かれた楽譜という限られた情報であっても、そのものに内在する音楽がどのようなものかは、楽譜からだけでもかなりの情報を得ることができる、とする立場から、実践的な演奏のコツを伝授しようとする。楽譜を構成する要素(それはとりもなおさず、音楽を構成する要素とイコールであることは自明なのだが)のことを、この本では「パラメーター」という言葉で指し示している。リズム、デュナーミク(強弱)、アーティキュレーション、テンポ、音色に分解し、それぞれについて理解を深め、練習することで、楽譜から「生きた音楽」を拾い出す手法を、あくまでも実践的に示し続ける。そのスタンスは一貫していて、読んでいてすがすがしさすら覚えるほど。
 だが、この本の真価はむしろ後半にあろう。後半に至って、マンテルはその実践的、形而下的な筆致を一変させる。いや、一変させるというのは大袈裟かもしれないが、演奏家にとって「聴き手に音楽を受け取ってもらうためには何が必要か」ということを、やや抽象的、時には形而上的な観点から説き始めるのである。特に第15章「音楽をイメージしてみよう」以降、パラメーターを駆使した、音楽の諸要素を事細かに分節するいままでの筆致は陰を潜め、音楽とは何か、表現とは何か、など、演奏家にとってより本質的な問題へと、その論を進めていく。実はこの本が述べようとしている重要な点も、まさにこの点にこそある。とりわけ、第17章「自分らしい演奏を求めて」冒頭で、筆者が模倣について述べるくだりは、傾聴に値しよう。

 アマチュアであれプロであれ、どんな人にもモデルとなる人がいます。そしてこのモデルになる人にもまたモデルとなった人がいました。いずれ多くの点でモデルを追い越し、その存在を必要としなくなり、認識できなくなったとしても、モデルはまだそれなりの役割をします。しかし勉強が進めば、それまで模範としてきたモデルの要素のすべてが必要でなくなってきますし、先人の生き方や教育方法を理解できなくなるかもしれません。その人はモデルになった人とはまったく別の方向に歩んでいるからです。

「モデル」からはいったいなにを学ぶのだろう。この本に従えば、楽譜からだけではわからない各パラメーターの扱い方、あるいは伝統的な様式について、といったあたりになるだろうか。だが、きっとここでは、そんな卑小なことを言っているのではない。自らが「モデル」と仰ぐ人からは、その細かな方法論はもちろんのこと、その人を偉大な存在たらしめている人間的な魅力がどこから生まれているのか、それこそを学ぶはずなのだ。やがて、その蓄積がひとりの個人の中で発酵し、熟成し、やがてその人自身の個性が涵養 ( かんよう ) されていく。「まったく別の方向に歩んでいる」というのは、自らその方向へと歩きだそうとするのではなく、気がつけば自らそういう道を選んで歩いていた、ということなのだ(そういう気付きを与えてくれる人のことを指し示す便利な言葉が西洋にはある。メンター Mentorというのがそれ。語源も含め、是非この言葉がもつ含蓄を、わざわざこの長文に付き合って下さる読者諸賢には、ぜひとも味わって頂きたい)。
 閑話休題。タイトルこそ「楽譜を読むチカラ」ではあるが、本書の原題、実は「演奏解釈:テキストから響きまで Interpretation: Vom Text zum Klang」という。特に楽譜の読み方にこだわっているわけではないことは、ここで指摘しておいても良いだろう。演奏家として大成するためには、楽譜の読み方そのものからいったん離れ、巨視的な観点から捉え直すことも必要なのでは、という筆者からの提案がつまっているという視点から本書を捉えた方が、より適切なのではないか、という想いにもとらわれた。ミクロとマクロがさまざまに形を変えて現れるその筆致にこそ、筆者マンテルの器の大きさが伝わってくる。彼の生き様こそが、すばらしいひとつの「モデル」であり、彼自身の存在が、「メンター」でもあるのだから。

ご紹介した本
楽譜を読むチカラ
 

 

楽譜を読むチカラ

ゲルハルト・マンテル 著/久保田慶一 訳

本書は、特定の楽器のための“演奏テクニック論”ではなく、特定の作品の“楽曲分析”でもない。楽譜をどのように読み、そこからどう音を組み立てて演奏していくのか、そのために必要な知識・練習計画・感情や表現を、どのように認識し、学習し、発展させるのか、を精神論にとどまらず、具体的に説いた本である。著者は、チェリストで教育者でもあるゲルハルト・マンテル。音楽の演奏と自然の原理を絡めている点も本書の魅力の一つと言える。チェロに限らず楽器を演奏するすべての人に、深い感動と発見を呼び起こす一冊である。


 

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