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広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

広瀬 大介

第42回
20世紀音楽史の神話を解体し、鮮やかな見取り図を示す

 昔から、アルノルト・シェーンベルクの歴史主義、あるいはドイツ音楽の優越性を声高に唱える姿勢に違和感を抱き続けていた。「自分の開拓する音楽の在り方が、今後百年のドイツ音楽の優位性を保証するだろう」といった類の激しい主張は、テオドール・ヴィーゼングルント・アドルノという、弁の立つ擁護者(あるいは雑誌編集者などの業界人も含まれよう)の言説によって、シェーンベルクと新ウィーン楽派による主張はある程度の正統性(カノン化・正典化)を得ることにつながった。とりわけ、アドルノによる「20世紀にもなって〈調性〉による音楽を作曲し続けるシベリウスやシュトラウスのような作曲家」に対する、過度に攻撃的な論陣が、20世紀音楽の全体像を誤ったかたちで規定してしまった(私自身がその〈調性〉に基づく音楽を作曲する作曲家の研究に携わっているからこそ、なおさら強い反感を覚えたのだろう、ということは、議論の前提として付け加えておきたい)。

 そんなシェーンベルクでさえ、〈無調〉という言葉を使うことには否定的だった、という点から、本書の議論は説き起こされる。20世紀に新しく生まれた〈調性〉音楽の潮流から離れようとする音楽の動きは、もちろんその過程にさまざまな試行錯誤を含むことになる。いったん〈調性〉の枠組みをはずした音楽のありようは、音楽を成り立たせるひとつの要素がカッコに入れられた、という程度の意味合いしか持たないはずなのだが、そんな音楽もラベリングせずにはいられない、という人間の性が、〈無調〉という言葉を生むに至った、というのである。
 シェーンベルク自身は新しい音楽の秩序・形式を生みだそうというほどの知性の持ち主であり、恣意的に用いられる〈無調〉という言葉によるラベリングには当然否定的であった(これはワーグナーが自身の生み出した新しい作品を〈楽劇〉と呼ぶことに否定的だった、という事実とも通底するだろう)。12音音楽へと至る自身の創作の過程で生まれた作品で用いられた手法をなんらかの言葉で呼ぶとするならば、〈汎調性〉という言葉を使ってほしい、とシェーンベルクは主張したという。だとするならば、師匠の師匠であるシェーンベルクの意図を誤解して(あるいは無視して)〈無調〉の語を戦略的に使ったアドルノの議論もまた批判の俎上に載せられるべきだろう。

 20世紀の音楽界で、作曲家はみずからの音楽語法開拓のためになにを為したのか、錯綜する議論を鮮やかにまとめ上げるという意味において、その世界をくまなく知り尽くした著者による見取り図は、確実にこれからの音楽史教育を塗り替えていくことだろう。そもそも、調性音楽そのものは20世紀においてもなお主要な潮流であり続け、全音音階、8音音階などの手法を採り入れることでその可能性を大きく拡げていった。ドミナント(緊張)→トニック(安定・弛緩)こそが〈調性〉音楽(あるいは機能和声)のもっとも重要な要素とするならば、20世紀における調性音楽の変遷は、その重要性が相対的に低くなっていた過程の歴史として捉えることは可能だろう。
 むしろ、〈調性〉音楽から離れようとした作曲家たちが直面したのは、そのことによって、ある程度の長さで作曲することのできる形式的優位性を喪ってしまうという危険だった、というのは重要な指摘である。だからこそシェーンベルクは伝統的な音楽形式の保持にこだわり(それが「伝統を受け継ぐ」というスタンスにもなった)、ヴェーベルンは極度に切り詰めたミニアチュールの作品世界を築いてみせた。〈無調〉という用語は、そうした努力の末に生まれた作品群を理解できない側が、それらを十把一絡げに批判する際の便利な(ネガティヴな意味を含む)言葉としても独り歩きを始めてしまう。

 本書においては、〈無調〉という言葉をひとつのキーワードとしつつも、20世紀における実際の音楽の歩みはいかなるものだったのかを探る、20世紀音楽史としての体裁を整えている。戦後音楽史における「ダルムシュタット楽派」の実態も解きほぐされ、「三羽がらす」に代表されるトータルセリエリズムだけにとどまらない活動の紹介によって、ダルムシュタットもまた数多く存在した音楽都市のひとつにすぎなかったことが証される。いわば、音楽史の常識として(自分も便利な故にたびたび使ってきた)この種の単純化された神話が、次々と著者の手によって解体され、その実態が浮かび上がってくるのである。リチャード・タラスキンなどの最新の言説をも踏まえつつ、次々と提示される事象とそれを適切に音楽史の中へと位置づけていくさまは、まさにこの分野に長年献身を続けた筆者ならではの情愛にも満ちている。専門的な音楽事項の説明が続いても、それらにとっつきにくさを感じさせない流麗な文体が、読者の理解を促す一助となるだろう。

 知的興奮とともに本書を読み終わり、ふと表紙に目をやると、その題名が「〈無調〉の誕生」というのは、一種のアイロニー、皮肉と感じられずにはいられない。本来ならば「実態のない〈無調〉という概念の誕生」、あるいはもっとシンプルに「〈無調〉の幻」といった類の直截なタイトルのほうが、より本書の内容には相応しいのだから。モノトーンの装丁そのものが、〈無調〉という言葉の墓標のようにも見えてくるのは、さすがに考えすぎだろうか。

※この記事は2020年6月に掲載致しました。

ご紹介した本
ドメニコ・スカルラッティ

〈無調〉の誕生:ドミナントなき時代の音楽のゆくえ
柿沼敏江 著

「現代音楽」とセットで語られることの多い「無調」は実在したのか? 「無調」という言葉に作曲家や音楽評論家は何を託そうとしたのか? 古典的な調性システムから離れた音楽は、時間軸をどこに求めたのか? 「調性の崩壊」という言葉でくくられがちな20世紀以降の音楽に本当は何が起こったのか? 音の縦の関係性、すなわちピッチと和声、音階や旋法に関連する問題を中心に、音楽史の再考を迫る画期的な論考。書き下ろし。「調性がなく、ひたすら難解で、聴くと頭が痛くなる音楽が現代音楽だ」と思い込んでいる人にこそお勧めの一冊。

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