エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第23回
刷新されていくアズマリの定義

 移り変わる時代に柔軟かつしたたかに対応してきたアズマリの職能は、パフォーマンスの脈絡や社会からのアズマリへのまなざしの変化をふまえ、今後どうなっていくのであろうか。
 多くのアズマリにとっての故郷であるゴンダールやその郊外で活動するアズマリたちは、アジスアベバを拠点に活動するアズマリたちを成功者モデルとしてとらえる傾向にある。活動の場を求めて町を徘徊し、酒場をおそるおそるのぞき込むような“流し”の芸人然とした、地方のアズマリにとって、首都のアズマリベットに専属し、月給を受け取り、海外公演を頻繁に行うような同郷の先輩たちがうらやましくみえないはずがない。移動性の高い集団であったアズマリの多くが、アズマリベットに属し、安定した収入を得るようになる。このようななか、アズマリの社会集団としての特質も様々な側面で変化の兆しを見せている。
 アジスアベバに定住し、特定の店に所属し活動を行う若い世代のアズマリは、隠語の語彙が乏しい者もいる。アズマリベット内において集団の有利となるような情報交換を隠語を通してそつなくこなせる者は多い。しかし、音楽活動に必ずしも関わらない様々な語彙をカバーし、日常生活のあらゆる場面で活用するといったような、ゴンダールのアズマリが行う会話レベルに達しない若手が首都にめだつ。アズマリの隠語はジャーゴン、スラングの類ではなく「我々(アズマリ)にとっての言語」である。変な話であるが、僕がアジスアベバ育ちのアズマリたちに隠語の語彙や活用の仕方について手取り足取り教えるようなこともある。音楽だけでなく、隠語による巧みなコミュニケーションも集団の活動を支える大切な職能だと僕は考えている。おせっかいかもしれないが、そんな僕の考えもアズマリたちに率直に伝えている。
 首都のアズマリベットを母胎に、アズマリはエチオピア伝統芸能の象徴として近年エチオピア国内外において知名度を高めつつある。アズマリベットにおいては、外国人客に対して英語で歌いかけるアズマリも出てきた。聖性と侮蔑の相反するニュアンスを持ちうる集団の呼称「アズマリ」(第4回)。この連載の中では、ひろく知られたこの呼称とは異なる、血縁を紐帯にした自集団/他集団のカテゴリー(それぞれンザタ/ブガ)をアズマリが持つことを何度か述べてきた(第1回第12回)。もう一つの音楽集団、ラリベラも同じようなやりかたで、自集団と他集団を差異化している(第16回)。しかし、かといって、両集団が古より、血縁、地縁にとらわれ、固執する閉じた社会集団であったわけではない。婚姻を通して、外部からアウトサイダーを包摂するなど、集団を規定する境界はつねにゆるやかであったと考えるのが妥当だ。
 それはさておき、上記のようなゴンダールのンザタの出自を持たない、都市型の新しいアズマリたちの出現も注目に値する。昨年日本ツアーを行ったHaddinQoは、突出したマシンコ演奏能力を持つ一人のアーティストだ。彼は、アズマリベットとも、ゴンダールの血縁集団とも無縁の存在でポピュラー音楽シーンの様々な歌手たちとも共演を行ってきた。アビィ・アハメド首相が敵対してきたエリトリアのエサイアス政権との対話の機会を設けるなかで、様々な問題をスピード解決し、2019年にノーベル平和賞を受賞したことは我々の記憶に新しい。その授賞式でもHaddinQoはバンドの一メンバーとして演奏を行った。突出したマシンコ奏者が、世間のアズマリについてのイメージをどのように変えていくのであろうか。そしてそれに対して、ゴンダールのアズマリたちはどのような、反応を示すのであろうか。とても興味深い。

HaddinQoによるマシンコのレッスン

“Azmari negn”, Zeritu Kebede(HaddinQoが登場)

 そういえば、エチオピアでは、2005年から2008年にかけてノルウェー政府の援助のもとユネスコ・アジスアベバ事務局(当時)が主導する『エチオピア伝統音楽・舞踊・楽器』調査・記録プロジェクトが行われた。本プロジェクトは、ユネスコをはじめ、アジスアベバ大学、エチオピア無形文化遺産保護調査局が手を組み、エチオピア各地に息づく音楽芸能の調査をすすめるという内容であった。ここに参集したのは、人類学や民族音楽学、さらには歴史学などの分野の、三十名にのぼる研究者だ。参加者の顔ぶれをみわたすと欧米をベースにする研究者が多かったが、エチオピア現地の研究者も半数近く含まれていた。それぞれがエチオピア各地で数ヶ月のフィールドワークを行い、最終的には、ユネスコ・アジスアベバ事務局に報告書や映像記録を提出するというミッションにとりくんだ。本プロジェクトには、エチオピア無形文化の世界遺産登録にむけた下調べという大義名分があった。無形文化と言っても、それに対する考え方や、研究のアプローチのありかたは、ユネスコ、地域社会のコミュニティや当事者、各研究者のあいだにおいてしばしば大きく異なる。そんななか、現地の大学では、本プロジェクトに関わる研究者を招聘する特別講義が定期的に開催され、エチオピアの無形文化に関する研究交流や情報交換が促進された。実は僕自身も、このプロジェクトに参加し、アジスアベバ大学で何度か講義を行ったり、アジスアベバの民族舞踊の展開に関する映像作品を制作し、ユネスコに提出するという仕事をこなした。しかしながら、各国の研究者たちが参加して取り組んだこの壮大なプロジェクトの成果が、ユネスコをはじめ、現地の機関でどのように受け止められ、議論され、エチオピアの「無形文化保護」に貢献しえたのかは、実のところ、明確にはわからない。ユネスコのいう保護すべき無形文化の担い手にあてはまるかどうかはさておき、アズマリやラリベラも本プロジェクトの枠内で注目されることになった。モヤテンニャ(職能者)という範疇に位置づけられ、エチオピア研究の文脈では等閑視されがちであった彼ら、彼女たちが、地域社会を支える文化の担い手という視点からとらえられるようになった。エチオピア研究の脈絡のなかでは、比較的空隙に位置づけられてきた音楽や舞踊についての研究への関心が、本プロジェクトを受け、現地の大学や行政のなかでもぐっと高まった。このプロジェクトの後、アズマリの研究を志す学生がちらほら増え、メケレ大学の大学院には民族音楽学の修士課程もできた。
 この流れを受け、2012年1月には、ドイツのヒルデスハイム大学ワールドミュージックセンターにおいて第1回国際アズマリ会議が行われ、さらに2015年10月にはエチオピアのバハルダール大学において第2回国際アズマリ会議が開催された。アズマリ会議?なんだそれは?と最初に聞いたときは耳を疑ったが、決してうさんくさい饗宴のようなものではなく、本会合は、アズマリやアズマリの音楽を、エチオピアの社会や歴史を理解する窓口としてとらえ、人類学、民族音楽学、言語学、歴史学等のさまざまな視点から考察していこうというねらいを持っていた。第1回、第2回ともに、研究者だけではなく、アズマリたちも招聘され、演奏を交えたレクチャーを行ったり、技能の継承や社会地位の変化に関するテーマの公開討論に参加し、各国の学者達と議論を行った。第2回の会議に招聘されたゴンダール出身のアズマリ、デジェン・マンチローは、討論の場で「アズマリがモヤテンニャ(職能者)から自由な表現者へ変容していく過程にある」としきりに強調した。この様子は、国営チャンネルや現地の新聞を通して大々的に伝えられた。本会合は今後もエチオピア国内外で定期的に開催される予定である。ゴンダール出身のアズマリであり、シドニーを拠点にするデレブ・デッサレイもアジスアベバのFMラジオ番組、さらにはアジスアベバ大学での講演会を通して、「我々はアズマリではなく、アーティストである」という主張を繰り返し行っている。デレブこそは、ゴンダールのアズマリ(ンザタ)という“血”のしばりと、自己が理想に掲げるアーティスト像のなかで揺れ動き、アズマリの定義を更新し続けてきた新しいアーティストであるといっても過言ではないだろう。

Yematbehla Wof, Dereb Desalegn & Nicky Bomba

Mewuded Lemejemer, Dereb The Ambassador

デレブ・ジ・アンバサダー のアルバム『エチオピア』の解説(川瀬)
http://www.itsushikawase.com/japanese/pdf/DEREB_THE_AMBASSADOR_190407.pdf

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