エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第22回
“外側”から揺り動かされるエチオピア音楽

 首都のアジスアベバの音楽シーンについて語られる際、バハラウィ、ゼメナウィという言葉をよく耳にする。バハラウィは“伝統的”、“文化的”、そしてゼメナウィは“モダンな”という意味合いにおいて用いられる。クラール、マシンコ、カバロ等の伝統楽器を中心とする演奏や、民族舞踊をみせるような場所はバハラウィ。シンセサイザーやバンド演奏、さらにDJ音楽を主体とするようなナイトクラブはゼメナウィの範疇に入れられる。
 アズマリのパフォーマンスは、バハラウィ音楽の代表格に位置づけられる。首都をはじめとする都市部では、アズマリベットとバハルミシェットという言葉が同義で用いられる。バハルミシェットは、”伝統音楽の夕べ”といったニュアンスであろうか。

アジスアベバの民族舞踊、ヨードゥアビシニア、ファンディカ等

アズマリの演奏にあわせて踊るダンサー

 そのようななかでも、アジスアベバのもっとも著名なアズマリベットであるファンディカにおいては、伝統楽器のアンサンブルから、エチオピア音階を主軸にしたジャズバンドの演奏、さらには店のオーナーのメラク・ベライを中心とする踊り子たちのハイブリッドな民族舞踊など様々な形態のパフォーマンスを楽しむことができる。もともとはメサレットゥ・ベレッタというウォロ地域出身の女性歌手が経営するありふれたアズマリベットであったファンディカは、2008年に踊り子の一人であったメラクに経営権を委ねる。様々な新しい音楽的な試みに柔軟に挑戦し、舞踊の表現の地平を拡張し続けるメラクのもとには世界各地から客やミュージシャンが集まるようになった。


 メラク・ベライ

 同クラブは、地元のアーティストから学者たち、さらには各国の大使館のスタッフ、国連の職員までもが集う国際的なサロンへ変化していった。僕とメラク・ベライのつきあいはすでに20年近くになる。出会ったばかりのころは彼には定住する家はなく、カサンチス地区に何十人といたアズマリベットのダンサーの一人にすぎなかった。エチオピアで音楽の調査をはじめたばかりの頃、僕はカサンチスのアズマリベットを何件もはしごし疲れはて、宿に帰る手段をなくすことがよくあった。客のはけたあとのファンディカの客席の長椅子でメラクとともに寝泊まりしたことは1度や2度ではない。
 今日、国際的に有名な場所になったファンディカは、バハラウィ、ゼメナウィという二項対立図式を超えた、新しいタイプの音楽クラブとして君臨する。ファンディカに所属するアズマリやダンサーたちは、世界各国の音楽フェスティバルをツアーして、人気を博している。エチオピア音楽・芸能を国際的に知らしめ、その知名度をあげたことに対するファンディカへの評価はエチオピア国内で高いのは言うまでもないが、2015年にはフランスよりメラクに対して芸術文化勲章が与えられている。

 ファンディカの様子  
 

 エチオピア音楽の世界への紹介という観点から、もう一人の人物を忘れてはいけないだろう。フランス人の音楽プロデューサーであり、エチオピア音楽の研究者でもあるフランシス・ファルセトである。1990年代半ばから彼が企画してきたEthiopiques は、エチオピアの伝統音楽から20世紀のポピュラー音楽に至るまでを紹介するCDシリーズだ。このシリーズの成功のおかげで、いわゆる“ワールドミュージック”の脈絡において、あまり知られていなかったエチオピアのミュージシャンたちが、世界的に知られるきっかけとなったことをご存じの方も多いかもしれない。
 僕がフランシスと出会ったのはエチオピアをはじめて訪れた2001年にさかのぼる。滞在していたホテルが同じであったこともあり、エチオピアに来て間もない僕は、彼から北部でのフィールドワークに関わる、多くの有益な情報を得た。ゴンダールのアズマリの村々の具体的な名前や、位置を、地図を広げながら最初に教えてくれたのは彼であり、そのことに関しては恩を感じている。フランシスによれば、彼とエチオピアの音楽との出会いは1980年代半ばとのこと。劇団に所属する彼の友人が、アジスアベバに公演旅行に出かけた。友人は、フランスに帰国した際、フランシスへのおみやげにエチオピア音楽のカセットテープを手渡す。それが、マハムド・アフメッドの音楽であった。マハムド・アフメッドは帝政時代から活躍する国民的な歌手である。

Mela Mela, Mahmoud Ahmed

 そのカセットテープに収められた音楽のかつて聞いたこともないような旋律に衝撃を受け、フランシスはその数週間後にはアジスアベバに飛んでいたのだという。その後、フランシスは足繁くエチオピアに通い、路上で売られていたカセットテープを聴き漁り、各国に離散したプロデューサーや音楽家を見つけ出し、軍事政権下の厳しい検閲にも負けず、粉塵に埋もれつつあったハイレ・セラシエ帝政期の音源を集めていった。同時に多くのアズマリたちを自らのホテルの部屋に呼びよせ録音を積み重ねた。その後、Ethiopiquesシリーズを発表。過去の音源が中心とはいえ、ユニークな音の玉手箱は、特に欧米の音楽評論家やミュージシャンたちの多くを驚喜させた。フランシス本人もEthiopiquesが世界的に話題を集めることになるとは思ってもいなかったのではないだろうか。
 フランス語の語学学校でありながら、数々の音楽イベントを主催するアリアンス・エチオフランセーズではフランシスの指揮のもとエチオピア音楽祭が2001年より2010年にかけて毎年行われてきた。そこでは、エチオピアを拠点に活躍するミュージシャンと同時に、各国から招聘されたアーティスト、特にEthiopiquesから影響を受けた欧米のジャズ・バンドが出演し、エチオピアのミュージシャンと共演を重ねてきた。アリアンス・エチオフランセーズにおいては同時期に、アズマリナイトと呼ばれるイベントが定期的に行われるようになった。エチオピア国内で活動するアズマリたちの多くが紹介され、海外のミュージシャンたちとジャムセッションを行うという、かつてなかった試みがみうけられた。アズマリベットにおけるアズマリのパフォーマンスはフランシスの企画で、欧州において幾度も紹介される機会を得ることとなった。
 このような様々なライブの企画に参加した僕は、ミュージシャンたちが演奏する楽曲の具体的な内容からテンポに関してまで、微に入り細にわたって指示を与えるフランシスの姿をはっきり覚えている。少し極端な言い方かもしれないが、フランシスという総指揮者がタクトを振りかざし、エチオピアの音楽を再構築し、その方向性すらも定めていくようにみうけられた。


 フランシス・ファルセト

 こうしたなか、近年、欧州のプロデューサーによって‟再発見”されたベテラン音楽家たちの世界的な躍進をはじめ、エチオピア音楽の過去の時代を過剰に絶賛し、もてはやす海外の音楽ファンに戸惑うエチオピアのミュージシャンは少なくない。世界的なエチオピア音楽ブームのきっかけとなったEthiopiquesは、あくまでもエチオピア国外のリスナーのために生産されており、エチオピアのリスナーにとって、本シリーズは値段が高すぎるという批判もたびたび耳にした。Ethiopiquesのなかで紹介され、世界的に脚光をあびることになった古老のミュージシャンやアズマリのなかには、フランシスのなかば強引なビジネス手腕を、エチオピア文化遺産の搾取である、と批判する者も少なくない。とはいうものの、フランシスを非難する当人たちも、このEthiopiequesシリーズの成功のおかげで、欧米各地をツアーし、スポットライトを浴び、各国の若手ミュージシャンと交流する機会を得ている。
 いずれにせよ、フランシスによって企画され、おしすすめられてきたエチオピア音楽の再発見、再解釈は、大きなうねりとなり、エチオピア音楽の枠組みを外側から揺れ動かし続けていることは確かなようだ。

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