エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第21回
アズマリベットの栄枯盛衰

 「ショイエワイユ、ショイエワイユ(人が来た、人が来た)」「ティンカブゾブトウ(マシンコを演奏しろ」。コーヒー豆がローストされ、香ばしい匂いと煙で満たされた狭い部屋。コーヒーを飲んでくつろいでいた5、6名のアズマリたちが隠語で騒ぎはじめ、客が来たことを互いに伝え合う。壁にたてかけてあったマシンコをつかみ、男性アズマリがゼラセンニャの演奏をはじめる(第10回)。この数分の短い歌が終わる前に、太鼓カバロがマシンコに絡み、演奏が徐々に加速していく。女性のアズマリたち2名はさっと立ち上がり、手拍子と口笛で参加する。ウォロ地域のものとされるミッドテンポの曲だ。先ほどまでのゆったりとした空気は一変し、空間が熱をおびはじめる。明け方まで続く、アズマリベットの長い夜が始まった。

 この回では、楽師アズマリの話に戻ろう。アズマリによるパフォーマンスの都市的な展開とその魅力について、アジスアベバの夜を彩る著名なアズマリを中心に紹介していきたい。アジスアベバの音楽シーンを深く潜航したいなら、アズマリベットをのぞいてほしい。アズマリベット(‟アズマリの家”の意)は、アズマリの歌や芸を楽しむことができるナイトクラブである(第5回)。ダルグ(DERG)軍事政権下の夜間外出禁止令の解除以降、都市部に増えたアズマリ音楽専門のエンターテイメントの形態である。それぞれの店にそれぞれのパフォーマンスのスタイルがあり、花形歌手がいる。アズマリベットの経営者をやりながら、スター歌手になった者も多い。アジスアベバのアズマリの大多数がゴンダールの出身者だ。僕がゴンダールに行くというと、故郷の親族へ、と、コーヒー豆や砂糖をどっさり渡されたり、故郷の村からあれやこれを持って帰ってきてくれ、というめんどうな注文を投げかけてくる。アズマリにとっては、ゴンダールで長年暮らした僕は、彼ら彼女たちの故郷の親戚のような存在であったのかもしれない。
 アズマリベットが密集するエリアとしてかつてはカサンチス、ヨハネス・サファーといったエリアがまず挙げられた。しかしながら近年、おそらく2008年頃を境にして、アズマリベットは、都市開発が進むカサンチスから、チチニア・サファーと呼ばれる歓楽街に移行している。そのようななか、今は消えてしまったカサンチスの名店舗や、カサンチスの夜に咲き誇った花々のようなアズマリたちについて書き記しておきたい。
 カサンチスの中でも、20世紀初頭の女帝の名にちなむゾーディトゥ通りにはかつて名店がひしめきあっていた。まず、ボレル・ウォチ。ここにはブルボクス村(第12回)出身のゾーディトゥ・ヨハネス、イェゼナ・ネガシ等の歌姫たちが君臨していた。さらに近年、幾度か日本公演をおこなった、デレブ・ジ・アンバサダーのデレブ・デッサレイが所属していたことでも知られる。けっして美声とはいえないゾーディトゥの味わい深くもかすれた歌声、そしてまるで小雨が大地に降り注ぐかのような、肩の小刻みな震えを伴う踊り。この歌姫2名は、全盛期に店をたたんでしまいロンドンに移住してしまう。

Bolel, Zewditou Yohannes

Engenagnalen / anteye, Zewditou Yohannes

 ボレル・ウォチの裏通りには、踊りの鬼才、イェシワルクの狭い店があった。彼女は、かつては国立舞踊団に所属する踊り子であった。大きな羽をひらく蝶のようななまめかしい踊り、そして、彼女の奥ゆかしくミステリアスな人柄を思い出す。彼女はエイズで亡くなって久しい。さらにこの坂を下った十字路には、デレブ・デッサレイの妹たち、ミミとトゥルウデルの二人のアズマリを擁するクラブ、ミミがあった。長姉のミミ(スンタイヨー・ゼネバ)は女主人といったところで、力強い歌い手であった。彼女が得意とする歌は、アンバセル、バティなどの北部の伝承歌。シンセサイザーの演奏による重厚なポップソングも、伝統楽器を通して咀嚼しなおし、器用に自分のレパートリーにしていた。歌手のツェダニア・ゲブレマルコスとともに、ロンドンを拠点とするダブ・コロッサスDub Colossusの歌手に抜擢され、世界をかけまわることになる。

Abo Jebagn, Sintayehu Zenebe

Azmari Dub, Dub Colossus

 ミミの妹、トゥルウデルは、歌はいまいちであったが、その美貌を生かし、外国人や富裕層の客たちに金や香水を貢がせ、まるで彼らを手玉に取るようにあしらう、毒婦然とした娘であった。ある日気づいたらアイドルグループの一員ということで、ポピュラー音楽界でデビュー。その後、ミミ、トゥルウデル二人とも、活動の拠点をトロントに移すことになる。

Guitar, Tiruedel Zenebe

Wane Wane, Tiruedel Zenebe

 そして、いわくつきのクラブ、ドゥドゥイエ。ここには、性的な内容を歌うことで知られるテグスト・アサファがいた。彼女は、巨体を揺らしながら男性の性的能力をあざ笑う艶歌を歌う。単なるポルノ歌手だと言って馬鹿にしてはいけない。彼女の艶歌は、エチオピア都市における、若者の性風俗の詳細なレポートであると同時に、エイズ予防のメッセージも込められる。テグストは北ゴンダールの小さなアズマリ集落ウォガラ出身で、かつてはエチオピア各地を旅して歌い歩く流しの芸人であった。ともに移動をして歌っていたパートナーである、夫のアズマリと別れてから、1990年代にカサンチスに拠点を移す。その後、アズマリベットのオーナー兼、歌い手として地道な活動を積み重ねる。彼女は、毎晩遅い時間、22時に出勤する。まず、歌をはじめるまえには、ビールを4,5本たいらげる。彼女自身の表現を借りるなら、それは彼女を稼働させるガソリンであるとのこと。悲しいかな、彼女はいつしかアルコール中毒になり、歌うことを止めてしまった。

映画『ドゥドゥイエ 禁断の夜』(監督:川瀬慈、2006年制作、2016年再編集)

 アズマリベットの栄枯盛衰をみてきたカサンチスにおいて、今も生き残る有名店がいくつかある。その筆頭がファンディカだ。ファンディカは、国民的なスターの踊り子、メラク・ベライがとりしきる、エチオピア屈指のアズマリベットである。オーソドックスなアズマリと客のやりとりからハイブリッドなジャズ演奏まで、様々な試みに挑戦し、アズマリベットの定義を換え続けている驚異的な場所である。コスモポリタンな音楽実験道場としての顔を持ち、国内外のミュージシャンの飛び入り演奏も行う。近年はエチオピア国外においてもよく知られるようになり、主要なメンバーたちは各国をツアーする日々に忙しい。
 ファンディカでは、エチオジャズの父、ムラトゥ・アスタトケの影響を受けたジャズアンサンブルを軸とする人気バンド、ナガリトゥ・バンドNEGARIT BANDや、ケイン・ラブKAŸN LABは、それぞれ二週間に一回のペースでライブを行う。メラクを中心とするエチオカラーEthiocolorはファンディカの看板グループであるが、同グループは、伝統楽器の演奏をベースにアムハラ、グラゲ、オロモ、ソマリ、シダマ等、多種多様な民族舞踊を創造的なアレンジでみせてくれる。もちろん客は座って手を叩いているだけではない。誘われるまま踊り子と向かい合い、踊りで、肉体で、返答をするのだ。店の前には毎晩、客たちが押し寄せ、店の前は、客を拾おうというタクシー運転手や、客たちの自家用車の列が通りを埋めつくす。
 このファンディカについては次回より詳しく解説したい。

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