エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第18回
『ラリベロッチ-終わりなき祝福を生きる-』(1)

 ラリベラの夫妻と出会ったのは、ゴンダールでフィールドワークを始めて間もない頃だ。この夫妻は、その後、拙作民族誌映画『ラリベロッチ-終わりなき祝福を生きる-』(以下、『ラリベロッチ』)においてとりあげたボッガラとアイザレッチである。
 夫、ボッガラ・アンメヌは1930年前後にゴッジャムにおいて生まれる。ボッガラは、子供のころは主に農牧に従事していたが、15歳で歌唱活動をはじめる。活動をはじめた当初は、両親とともに活動を行っていた。18歳の時に結婚し、その後12人の子供をもうけたが、そのうち5人が亡くなったという。妻アイザレッチは2番目の妻でショワの生まれだ。
 僕は、エチオピアへ渡航するたびに、ゴンダールにて活動を行う夫妻やその家族と再会することとなる。この夫妻と子供たちは、南は首都のアジスアベバ、北はゴンダールのラス・ダシェン山麓まで、町から町を移動し、広範な地域において活動を行っていた。2004年には、エチオピアの人気歌手のゴサイエが、ラリベラの女性と恋に落ちるというテーマの歌をヒットさせた。また同じころに、米国在住の著名なエチオピア人映画監督であるハイレ・ゲリマがボッガラとアイザレッチの歌を録音し、後年、『テザ 慟哭の大地』(2008年)において使用した。本作は数々の映画祭で受賞し、ハイレ・ゲリマの代表作となった。これらの動向を背景に、ジャーナリストや研究者を中心に、ラリベラに関する関心が高まり、雑誌やラジオのインタビューを受けるラリベラも出てきた。
 ゴンダールに滞在中の夫妻は、午前5時に近隣のモスクから聞こえてくるイスラームの祈りの合図、アザーンの斉唱で目を覚ます。5時30分ごろに活動をスタートし、家々の軒先で歌を歌い、人々を祝福し、金品を受け取る。活動を終え、バスステーション裏の間借り宿に戻るのは午前11時前後である。宿に戻るとすぐに、妻のアイザレッチは布袋のなかに貯めたその日の報酬を数え始める。正午には、彼らの一日の仕事がほぼ終わるのである。昼食後、夫は夕方まで酒場で過ごし、妻は夫の服を作るために糸つむぎを行ったり、コーヒーを沸かして飲むなどゆったりと過ごす。夫妻に出会った当初から、夫妻の活動の様子や、宿での生活風景、活動に関する語りなどを撮影してきた。撮影した映像をビデオカメラの小さなモニターを使って夫妻や夫妻の子供たちと共に観るという行為を繰り返した。僕が何を撮っていたのかを夫妻に随時フィードバックしつつ、僕の調査研究に関して夫妻に丁寧に説明することを試みた。自らの姿を映像という媒体を通して観察することは、夫妻にとってはこれが初めての経験であり、撮影した映像を僕が再生するたびに、夫妻はモニターに映る自分たちの姿を指差し喜んでいた。いつしか、撮影が終わるたびに夫妻の側から、フィードバック上映をせがむようになり、それは彼らが間借りをする宿の近所の住人をも巻き込む、一大イベントと化してしまった。フィードバック上映は調査の新たな展開をももたらした。撮影時には僕が気づかなかった多くを、夫妻が指摘し、教えてくれたのだ。その一つが隠語の存在である。アズマリと同様に、隠語を用いて、アムハラ語の歌詞と歌詞のあいだを縫うように、活動に関わる重要な情報が頻繁に交換されていたことが、明らかになったのだ。フィードバック上映の繰り返しは、僕が集団の隠語を習得していくきっかけとなった。
 そのようななか、ゴンダールの町の人々との豊かなやりとりに支えられて展開する夫妻の活動の記録を一本の映画にまとめた。

『ラリベロッチ-終わりなき祝福を生きる-』(監督:川瀬慈、2007年制作)

 本作冒頭のシークエンスは、ラリベラ夫妻の来訪という出来事に対する町の人々のさまざまなリアクションを、約7分のノーカット映像の中に映し出した。当シークエンスは、作品中、夫妻と人々のやりとりが最も密に描写される部分である。まず家の軒先で、エチオピアの代表的な食物であるインジェラをつくるために、緑色のバケツに手を入れ、原料のテフの粉と水を混ぜ合わせている中年の女性が登場する。夫妻が彼女に対して歌いかけようとした矢先に、女性はあたかも夫妻を追い払うかのように紙幣を手渡す。ボッガラは金品を受け取ると、家々の玄関を背に、金品をくれた相手に対する祝詞を、隣近所に響き渡るように歌う。皆、掌を胸元で天に向け、「アーメン」と繰り返しながら祝福を受ける。2件目では若い女性が家の中からではなく、戸外からボッガラに紙幣を渡す。1軒目、2軒目と、歌に対する報酬の紙幣がボッガラに渡され、夫妻の活動がこのまま順調に進行していくような期待感すら与える。カメラはボッガラの祝詞の歌の終わりとともに、左から右、すなわち路上の方向へフォーカスを移す。夫妻のまわりには20人ほどが集まり、物珍しそうに夫妻の様子を眺めている。
 夫妻が3軒目の家に移動しようとした矢先、その家の住人とみうけられる少女にボッガラは歌を拒まれてしまう。少女の「お母さんはいないってば」という言葉から、一家の財政を管理するのが母親であることが推察できるが、母親が実際に留守なのか、夫妻を追い払うために少女が嘘をついているのかどうか、真偽は定かではない。
 映像のなかでボッガラは、少女の言葉を無視して通りすぎるわけでも、怒りをあらわすわけでもなく「何も怒ることはないだろう せっかくのかわいい顔が台無しだぜ」と彼女にすかさずジョークを交えて対応する。ボッガラの言葉に対して、夫妻をとりかこむ近所の人々から一斉に笑い声があがり、とげとげしい態度で夫妻を追い払おうとした少女さえ思わず吹き出してしまう。人々の笑い声につつまれながら、その後も少女とボッガラのあいだで対話がなされる。少女の歌の拒絶を、ボッガラはなかなか、受け入れようとしない。結局、夫妻に何も与えなかった少女に対して、野次馬の1人が、「飯でも分け与えてやりなよ」と投げかける。「そいつをこの外人が食っちまうんだぜ」という撮影者である僕への辛辣な揶揄。夫妻と人々のやりとりは、ときにコミカルでユーモラスに人々をつつみこんで展開する。逆に撮影中、こちらが冷や汗をかくような緊迫した場に遭遇することもある。5軒目の家にさしかかる場面が良い例だ。玄関に立つ中年の男性が「こっちに来るな」「そいつ(川瀬)も連れて失せな!」「黙れ!」という強い拒絶の言葉を、まるで野良犬でも追い払うような仕草で投げかける。ボッガラも粘り強く応戦する「祝福を与えてやるんだからそんな言い方はよせ・・・」「撮ってるじゃないかよ」「ボッガラ:あんた今年はどうしちまったのさ?」「男性:撮ってるじゃないかよ」「ボッガラ:じゃあ撮影の何が悪いっていうんだい?」。その後夫妻は、かたくなに拒絶反応を示す男性への歌唱をあきらめ、次の場所へと移動はじめる。男性は最後に「エチオピアが乞食(レンマイ)だらけだって、外国で思われるだろう」という言葉を夫妻と僕に吐き捨てる。乞食を意味する“レンマイ”という語には強い侮蔑的なニュアンスが含まれる。同時に、夫妻に対してのみならず、“物乞いをするエチオピア人”を撮影し、外国に持ち帰る(であろう)僕への不快感を男は表現したかったのかもしれない。エチオピア北部の一部の知識層、エリートの中には、僕が映像の中でとりあげる音楽をなりわいに生きる人々を、恥ずべき文化である、ととらえる者もいる。撮影中、町の人々が夫妻に投げかける言葉に「この外国人(私)はあんたたちの姿を映像におさめて、国へ帰ってから高い値で売るはずだ、撮影を止めさせろ」というおせっかいな忠告が頻繁にあった。そのようなときボッガラはいつも笑いながら「我々の息子が、われわれの映像を売って金持ちになるなら結構なことだ」「川瀬が我々の映像を売って、学費を納めるなら、それは我々の本望だ」等のジョークを返し、僕を擁護してくれた。

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