エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第13回
村とのつながり(2) タガブとイタイア

 タガブ・ムーチェと、イタイア・ウォルクは、僕が最も親しく交流したアズマリの少年2人だ。彼らは他のアズマリたちと同様に、エンコイヤメスク(第3回)に間借りをし、ゴンダールの町中で演奏を行う10代半ばの“流しの楽師”であった。定まった演奏の場はなく、安酒場をのぞいてはチップをくれそうな客がいないか物色し、ゴンダールをひたすらさまようことが彼らの日課である。2人は他のアズマリの子供と同様に、ゴンダール中心地に立つエチオピアホテルの僕の部屋を訪ねる常連でもあった。彼らが話して伝えてくれる日常の些細な出来事、音楽活動の詳細、さらにはグループ内外の人間関係は、僕自身がアズマリを少しずつ理解していくうえでとても役にたった。


 イタイア(左)とタガブ(右)

 僕はこの2人を中心とするアズマリの子供グループの活動を追いかけ、演奏を観察し、映像で記録するようになっていった。2003年から2004年にかけての1年間のゴンダール滞在中、僕と子供のアズマリのグループとの絆は強いものになっていった。アズマリとして生きる日常は決して楽ではない。首都のアジスアベバと比較して、保守的であるとされるゴンダールでは、人々の職能者への視線は概して冷たいといえる。マシンコを携えて路上を歩くアズマリの子供には、時には容赦ない揶揄や罵声が投げかけられる。また、歌う機会を追い求めて酒場を渡り歩いていても、縄張り意識の強い大人のアズマリたちに見つかれば、子供のアズマリはすぐにつまみだされてしまう。せっかく客をみつけたとしても、演奏技術の拙い子供には、多くの報酬が払われることは珍しい。それでも決してあきらめることなく、演奏機会を求めて町中を移動し、歌い続けるタガブとイタイア。気が付いたら、僕は彼らに強い共感とシンパシーを覚えるようになっていた。


 マシンコを背負って歩く二人 映画『僕らの時代は』より

 そのようななか、民族誌映画『僕らの時代は』を制作した。これは、アズマリの少年少女が歩む道程を、2001年から映像によって数年ごとに記録してゆくプロジェクトの一部であった。本作では、タガブとイタイアに焦点をあて、音楽職能を生きる2人の日々の営みを、僕と2人による、アムハラ語、アズマリ隠語による対話を中心に描いた。作品の大部分はたわいもない会話を含むやりとりなので、本作は、アズマリについての記録というよりも、僕と少年2人、タガブとイタイアの交流の記録、といってもよいのかもしれない。文字通り、“僕らの”というぐらい、我々はいつもいっしょだった。振り返れば、撮影者(調査者)、被写体(被調査者)と互いを区分する境界はあいまいなものになり、カメラを介して、互いの意思決定、立ち居振る舞いに深く影響しあう、ある種の“共犯関係”にあったのかもしれない。マシンコを抱えながら、演奏場所を求めて町中をさまよう少年2人はまるで野武士のようだった。我々は冗談を言いあったり、励ましあったり、時には喧嘩をしたり、大人のアズマリたちや町の人々の邪険な態度に憤慨しつつ一喜一憂し、密度の濃い時間を過ごした。

映画『僕らの時代は』(監督:川瀬慈、2006年制作、2016年再編集)

 タガブ、イタイアを中心とした子供の音楽家たちと過ごした日々は、かけがえが無く充実した時間であり、アズマリの研究という観点からも、有意義であったことはいうまでもない。しかし、血気盛んでわんぱくな少年たちと四六時中いっしょにすごすのはなかなかハードだ。たまには一人でゆっくり部屋で過ごしたい、少し執筆に集中したいというときは誰にでもある。明日は部屋を訪問するのを控えてくれ、と子供のアズマリたちに懇願しても、ほとんど逆効果なのである。僕の部屋は一時期、アズマリをはじめ、自称“ストリートガイド”(とはいうものの、観光客をだまして小金をかせぐようなチンピラたち)のたまり場と化してしまった。プライバシーも何もない。長期滞在の学生ということで、オーナーの好意によって宿代はそこそこ、まけてもらっていた。それなのに、狭い部屋で歌って踊って、しょっちゅうどんちゃん騒ぎを繰り広げるので、宿のオーナーやその息子たちから目をつけられ、あやうく部屋を追い出されかけた。アズマリをはじめ、いろんな町の輩の訪問に辟易し、僕は部屋の向かいにもう一つ部屋を借りて隠れ、居留守を使うようなことも試みた。
 いずれにせよ、アズマリの子供たちとの町での生活とは別に、僕とタガブとイタイアにはちょっとした楽しみがあった。それは、ごくたまに2人の少年の生まれ故郷、ブルボクスに一緒に赴くことだった。コーヒーの生豆と砂糖を一キロずつ、2人の家族に持参するのを忘れてはいけない。毎日コーヒーセレモニーを行う村の人々にとって、コーヒー豆と砂糖は、もっとも喜ばれるおみやげなのだ。村では、町のライフスタイルとはがらりと変わった生活が待っている。二人も朝早く起き、薪集め、家畜の放牧に忙しい。タガブとイタイアは、多少享楽的な芸能者から、寡黙な農夫にかわる。足早に彼らの家族、生い立ちを紹介したい。


 イタイア 映画『僕らの時代は』より

 イタイア・ウォルクはゴンダール近郊のアズマリの村、ブルボクスに1990年に生まれた。イタイアの母方の一族は有能なアズマリを多く輩出してきた家系としてアズマリ内ではとてもよく知られている。祖父ムララム・アッデガ(2005年没)は、イタリア軍との戦争の際に、マシンコを携えて戦場で兵士を鼓舞するために歌ったという。キリストの復活をテーマにした伝承歌等、ほとんど誰も歌えないような歌詞を多く知っていた彼のもとには、1990年代後半にパリ大学の歴史学者、人類学者が何度も訪れ、アズマリの伝承や親族関係、歌詞に関する聞き取り調査を行っていた。調査に協力したイタイアの一家には、フランスの研究チームから、どうやら多額の報酬が与えられたようだ。そのため、僕が初めて彼の家を来訪した際は、僕が求めていないにもかかわらず、イタイアの親族のアズマリたちが代わる代わる登場し、僕の面前でリレー形式で歌を歌い、多額の報酬金を要求してきた。これにはほんとうにたじろいだ。僕に対するイタイアの親族の激しく、あからさまなベギングに、イタイアはメンツをつぶされ、数日間落ち込んだ様子であった。
 ムララムの子供たち、すなわちイタイアの叔父や叔母たちは、エチオピア各地で精力的に音楽活動を行ってきた。イタイアの叔父(母の兄)にあたるナガ・ムララムはアルバム作品をいくつかリリースし、エチオピアのポピュラー音楽シーンにおいてもある程度の成功をおさめている。同じく叔父のムーチェ・ムララムは、軍事政権時代の1970年代に、ゴンダールの有能な音楽家、踊り子を結集した楽団、ファシル・キナットの一員に選抜された。キナットは、当時の軍事政権が掲げる共産主義のイデオロギーを歌や踊りを通して広める目的で、エチオピア各地に組織された。多くのアズマリを輩出してきたブルボクスにおいても、イタイアの両叔父は屈指のマシンコ奏者として知られる。イタイアの父は隣村インフランスからブルボクスへ婿入りしたアズマリであった。イタイアはブルボクス近郊の学校に4年ほど通っていたが、アジスアベバにおいて出稼ぎ活動中であった父が急死したことを受け、学校を辞める。父の仕送りが途絶えたため、家計を助けるために演奏活動を行うことを決意したのだという。アズマリの兄の指導のもと歌とマシンコの演奏技術を習得し、ゴンダールや近郊の町において活動を行うようになった。


 酒場で歌うタガブ 映画『僕らの時代は』より

 一方、タガブ・ムーチェは、ブルボクスにおいて、同村出身の父と隣村インフランス出身の母の間に1991年ごろに生まれた。両親はスーダン国境付近の町を活動のなわばりにしていた。その一つが、スーダンからの石油供給の重要な中継地として、さらにゴマ栽培の中心地として栄えるマタンマ。もう一つが、ゴンダール屈指の綿花の産地で、収穫期には近郊より多くの出稼ぎ労働者が集まるホマラである。タガブが7歳の時に父が黄熱病によって亡くなる。母はすぐに出身地であるインフランスに戻り、アズマリの男性と再婚をする。タガブも母とともに、母の出身村、インフランスに移住した。しばらく義父とともに暮らすが、義父との折り合いがつかず、村を離れる。その後、姉に購入してもらったマシンコを携え、ゴンダールにおいて音楽活動を行うに至る。母は義父と離婚し、結局前夫(タガブの父)の故郷であるブルボクスへ戻ることになる。これを受けタガブは、ゴンダールや、両親のかつての活動地であったマタンマやホマラを中心に姉と2人で演奏を行うようになる。これらの出稼ぎ先にも僕はタガブとともに赴いたことがあるが、ブルボクス出身のアズマリたちが地縁、血縁を紐帯としたコミュニティを形成し、共同生活を行っていた。そして労働者たちが集う酒場などをターゲットに旺盛な演奏活動を展開させていた。タガブからの定期的な仕送りが母や幼い弟たちを中心とする家族の生活の糧であった。10代半ばと若いのに、なかなかたいしたやつだった。

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