エチオピアの楽師、吟遊詩人を追って―音楽を職能に生きる者たち―

川瀬 慈(かわせ・いつし)
1977年岐阜県生まれ。映像人類学者。国立民族学博物館/総合研究大学院大学准教授。
エチオピアの楽師、吟遊詩人の人類学研究、民族誌映画制作に取り組む。同時に人類学、シネマ、アートの交差点から創造的な叙述と語りを探求する。代表的な映像作品に『ラリベロッチ』『僕らの時代は』『精霊の馬』『Room 11, Ethiopia Hotel』(イタリア・サルデーニャ国際民族誌映画祭にて「最も革新的な映画賞」受賞)。共編著に『アフリカン・ポップス!——文化人類学からみる魅惑の音楽世界』(明石書店)、『フィールド映像術』(古今書院)、近著『ストリートの精霊たち』(世界思想社)が第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞を受賞。

川瀬慈

第12回
村とのつながり(1)

 ゴンダールの町中で活動するアズマリたちは、近郊の農村の集落の出身者が占める。アズマリ達は普段は町で音楽活動にいそしむが、村の様々な行事に頻繁に参加し、親族のいる村々とのつながりを大切にしている。誰かが亡くなったと聞けば、村にかけつけ、レクソー(葬式)に参加し、右手を喪主の肩にかけてオイオイ泣く。たとえ悲しくなくても、その場に居合わせ、泣くという行為を共有することが重要だ。また、ゴンダールを拠点に音楽活動を行う者でも結婚式は故郷の村において行う。エチオピア正教会の村での行事にも律儀に赴く。ゴンダールのアズマリの8割から9割が、同じくゴンダールのアズマリの集落出身の相手と婚姻関係を結ぶ。アズマリの出自をもたない者(ブッガ)と婚姻関係を結ぶことは“家にひびが入る”といって好ましいこととされないようだが、アズマリの都市への移動と定住化の傾向とともに、そのような言説は近年、徐々に弱まっているようにみうけられる。とはいうものの、地縁、血縁の紐帯とその維持は、アズマリたちにとって重要なことである。一方、村では普段、農牧に従事しながら、結婚式やエチオピア正教会の祝祭儀礼の機会にだけ町へ出稼ぎにやってきては音楽活動を行う者がいる。


 ブルボクスを望む

 アズマリの集落は青ナイルの源、タナ湖の北西に隣接するブルボクスが有名である。ゴンダールから南にむかって約30キロメートルの場所に位置するブルボクスには200世帯ほどのアズマリが暮らす。エチオピア国内外で活躍する歌手を輩出したブルボクス。ここ数年、テレビの報道番組でも繰り返しとりあげられ“優れた音楽家が多く生まれた場所”として、全国的に知られるようになった。都市のアズマリベット(第5回)には、このブルボクスという名前を掲げる店舗もいくつか出現したほどだ。アズマリの話によると、ブルボクスのはじまりは、エンゲダ・タクリトゥと呼ばれるアズマリにあるらしい。彼は19世紀、貴族お抱えの楽師であった。活動の報奨としてパトロンである貴族から彼に与えられた土地が、ブルボクスのはじまりであるという。このブルボクス近郊にはサルボクス(ドゴラ)、バハルグンブ、サッカルト。バハルダールヘ向かう幹線道路沿いのタナ湖東部には、インフランス、アモーラガデル、ガダビエなどのアズマリの集落が連なる。さらにゴンダール北部シメン山脈界隈に目をやると、ラス・ダシェン山のふもとにあるベレッサやトワ、メラバにアズマリの集落が分布している。


 ブルボクスのアズマリの子供たち

 最初僕は、アズマリの数の圧倒的な多さから、ブルボクスに調査拠点を定めた。しかしそこは、町で成功した音楽家の一家が多いためであろうか、お金にがめつい輩たちが多かった。そのため、すぐ隣の小規模なアズマリの集落に拠点を定めることにした。巨大なアズマリ集落、ブルボクスを抜け、徒歩で約20分、ゴンダールからは32キロメートル、バハルダールへと続く幹線道路沿いにアズマリの小集落バハルグンブがある。バハルグンブは道路を挟むようなかたちで、東側のファンディカ地区、西側のウビエムンチ地区に分けられる。ファンディカ地区側のなだらかな斜面をのぼりきると、煉瓦造りのバハルグンブ・ミキャエル教会が、卵型のユニークないでたちで、タナ湖、隣町マクセニートの巨岩モラリトゥディンガをみわたしている。集落の外には広大なテフ畑がひろがり、軽く湾曲したカブラス川には放牧中の牛たちが水を飲みに集まっているのが見える。バハルグンブのアズマリの居住形態は家々が散在するブルボクスに比べ、ウビエムンチとファンディカの二ヶ所に集中的に家々が立ち並んでいるのが印象的である。この集落内には約17のアズマリ世帯がある。遠方へ一時的に演奏活動に行っている者を含めると人口は120人ほどといったところだ。

 バハルグンブの集落を望む  バハルグンブ・ミキャエル教会

 僕はかつて、この集落に家を建ててもらいフィールドワークに従事した。家といっても、村に専業の大工はいない。壁の材料は主に牛糞と土を混ぜあわせたもの。近所のアズマリたちといっしょになって足でそれを踏みつけ、ユーカリの木でつくった家の骨組みの間に、手でペタペタ壁を重ねていく。とはいうものの壁は乾いたらはがれて落ちる。半年に一度ほどの割合で、この牛糞による壁を張りなおさねばならない。僕はこのメンテナンスを怠ったため、本来ならば10年ほどの寿命のところ、僕の家は6年ほどで壊れてしまった。家を建てた場所はホストファミリーであったバイエ・マントセネットの敷地内。バイエさんと奥さんのファレグシは、若いころはエチオピア各地を演奏して歩き、スーダンや現在のエリトリア界隈にまで赴いたという。年をとってからは、演奏をやめ、家畜を放牧しながら農業を行う生活が中心になった。農作業を終えて家の中でガスランタンをともし、孫たちに若い頃おとずれた町々のエピソードやエチオピア正教会の聖者たちの話を語って聞かせるのが日課であった。バイエは4年ほど前、畑からの帰り道、自宅前の幹線道路で車にひかれて亡くなってしまった。80歳程であっただろうか。彼の二人の息子たちは働き者。まずマシンコの名手、長男のデスタはゴンダールを拠点に、妻とともに、専業の音楽家として活動する。ゴンダール屈指の人気アズマリベットに専属し、安定した収入を得ていた。次男のメラクは、専ら村で農牧に従事。エチオピア新年のあとの祝祭の多い季節等に、楽器をかかえ、ゴンダールへでかせぎにやってくる。


 バイエと彼の孫たちと、川瀬の家の前で

 農村でのフィールドワークの思い出は尽きない。まずコーヒーセレモニー。これは朝、昼、晩と毎回一時間ほど女性が行う、日常のおもてなしの儀礼だ。コーヒーを準備して飲む間、農作業のこと、家畜のこと、近所の隣人たちの噂話などぺちゃくちゃ話をする。コーヒーを飲むことそのものよりも、近所づきあいによる、円滑な社会関係の維持が大切なのかもしれない。村のトイレに関してもエピソードだらけだ。トイレは基本的に皆無なので、高原に行く。あるとき子供たちの間で、川瀬は金塊を排出する、といううわさがまことしやかに伝わった。そのせいなのか、好奇心旺盛な農家の子供たちが、僕をめざとくみつけどこまでもついてくる。僕は焦りながらも、石を握り、子供たちへ投げつけるふりをする。すると、子供たちは、余計にきゃっきゃ叫んで喜んでついてくる。あれにはほんとうにまいった。


 バハルグンブの水汲み場で

 農作業の合間には、バイエの孫たちや近隣の幼い子供たちとよく遊んだ。高原の朝は早く、子供たちは働き者である。男子は5歳ぐらいから家畜の放牧をまかされる。女子は水汲みと、燃料用の乾いた牛糞集めに忙しい。子供たちは仕事の合間に、通学の途中に、いろんな遊びをやる。現地語でメハレム・ヤヤチュ(直訳:私のハンカチ見た?)と呼ばれる、いわゆるハンカチ落としは夕刻によく見かけた。ハンカチの代わりに、スカーフや石を使ったりもするが、日本のそれと同じルールである。サイ・サイは、2名が至近距離で面と向かい合い、木の棒で相手の尻を打つという男子の遊び。走りまわって切りあうチャンバラではなく、両者とも両足の位置をずらしたり移動してはいけない。相手の尻に‟ディッフェン!”(「バシリ!」にあたる擬音語)と棒を綺麗にヒットさせて点を積み重ねていく。いわば一種のスポーツともいえるのだが、お互いに興奮して流血騒ぎになったり、木の棒を放り投げてつかみ合いの喧嘩になることは珍しくない。


 水汲みの少女

 ロバを使った遊びもある。ロバはエチオピアの農村には欠かせない動物で、市場への荷物運搬に活躍するが、仕事以外の時はじっと高原に佇んでいる。ロバは働き者、従順、無垢とポジティブなイメージを持つ反面、愚か者、阿呆のイメージを想起させる。人を罵るとき、さらには近隣の民族を馬鹿にする際にこの語が用いられることもある。人々の生活になじみ深いロバが登場するアムハラ語の成句やことわざの類を挙げだしたらきりがないであろう。
 僕が勝手にロバ・ロデオと名付けた遊びは、ロバに乗っかり、落とされるまでのスリルを味わうたわいもないものである。しかし、なにせロバはおとなしい動物で、子供が乗っても微動だにせず佇んでいることが多い。そこで、少しかわいそうなのだが、誰かが木の棒でロバの尻を‟ディッフェン!”と叩いたり蹴飛ばしたり、なんらかの刺激を与えねばならない。これに驚き、ロバは突然駆け出すのだが、ロバに振り落されまいと必死にしがみつく悪ガキたちの姿の、なんとも可笑しいこと。バイエの孫の一人は、ロバとともに小屋につっこみ壁に穴をあけてしまったし、僕は牛糞の上に背中から落下したこともある。みな腹を抱えて笑い転げていたのが懐かしい。


 バハルグンブの木陰で休憩

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