21世紀のふるさとの歌を訪ねて

島添貴美子(しまぞえ・きみこ)
富山大学芸術文化学部准教授。
研究分野:民族音楽学(日本の民謡・民俗芸能)。
共著:『エイサー360度』(沖縄全島エイサーまつり実行委員会、1998年;沖縄タイムス出版文化賞受賞)、『民謡から見た世界音楽』(ミネルヴァ書房、2012 年)など。
放送:NHKラジオ第二の番組「音で訪ねる ニッポン時空旅」に出演、解説を担当。同番組は「NHKに残された日本各地の祭りや民謡の貴重な録音を堀り起こし、 音からイメージできる“ニッポンの暮らし”を語り合う」。2015年4月に放送開始、現在もレギュラー番組として放送中。

島

添貴美子
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第12回
菅江真澄と臼歌

 明治時代以降、研究者の間で、民謡の中でも特に重視され、これぞ「民謡」と考えられたのは、仕事の時、あるいは仕事の合間に歌われた歌=仕事歌である。仕事歌は、田植えの時に歌われた田植歌や漁師が網をひく時に歌った網引き歌、山で木を伐りながら歌った挽歌びきうたなど、あらゆる生産活動にわたってみられ種類は多い。その中で、私が「これぞ仕事歌」と思うのが、臼の仕事に関わる歌である。臼の仕事に関わる歌は、臼挽歌、粉ひき歌、摺り臼歌、粉つき歌、籾摺り歌、麦搗き歌などと呼ばれているが、ここでは臼歌うすうたと総称する。実は、臼歌が重要だと考えていたのは私だけではない。なんと、臼歌は江戸時代にも注目されていたのである。そこで、私の臼歌愛を語る前に、江戸時代に臼歌がどのように歌われていたかをみてみよう。

■江戸時代の民謡集

 江戸時代に編纂された民謡集は、その性格から大きく二つに分類できる。一つは教化的意図のもとに、人々を啓蒙し指導するために新作された歌(藤田1939:50)の歌集で、もう一つは実際に歌われている歌を収集した歌集である1
 前者の歌は 教化きょうけ民謡(藤田1940:391)、教化歌謡(小野2006:18)などと総称されるもので、歌集としては、江戸時代前期の臨済宗の僧盤珪ばんけいようたく(一六二二-一六九三)の『臼引歌』2や江戸時代中期の国学者薗原そのはら旧富ひさとみ(一七〇〇-一七七六)の『臼挽歌』3などが挙げられる。
 教化歌謡は、子守歌やまりつき歌などでも創作されているが(藤田1940:403)、その中で、なぜだか臼歌も創作されているのである。ただ、臼歌とはいうものの、臼について歌っているわけではない。例えば、盤珪の『臼引歌』には、次のような歌詞が書かれている。

1 生まれ来たりし、いにしへ問へば、何も思はぬ、この心
2 来たるごとくに、心を持てば、すぐにこの身が、みな仏(生き仏)
3 しやうめつの、この心なれば、地水火風は、仮の宿
(以下略、小野編2003:3)

 こうした臼歌の歌詞は基本的に七七七五調で、特に「このフシで歌え」という指定がないので、「日ごろ臼仕事で歌っているフシに合わせてこの歌詞を歌ってね」ということだったのだろう。
 この他にも、『越風石臼歌』4のように当時の民謡の歌詞を漢文に訳したり、江戸時代後期の歌人香川景樹の「俚歌雅譯」5のように、和歌に直したりしたものもある。俗っぽい歌詞をわざわざ品のよい表現に改めるというのは、高野辰之がいうように「古今雅俗の顛倒が讀者に笑を呼び起す」(高野編1929:5)ものだったかもしれないし、もしかしたら、なんらかの啓蒙的な意図があったのかもしれない。

■菅江真澄と柳田國男

 これに対して後者を代表するのが菅江真澄の『 鄙廼ひなの一曲ひとふし』である。
 菅江真澄は、宝暦四年(一七五四年)頃、三河に生まれ、国学と本草学を学び、天明三年(一七八三年)、三十才頃に故郷を出て、信越から東北、蝦夷地までを旅した後、津軽、秋田で暮らし、後に「真澄遊覧記」と総称される日記や、随筆、スケッチなどを多数残した。本名を白井秀雄といい、一般に知られている菅江真澄の名は文化七年(一八一〇年)頃より用いられた雅号である。文政十二年(一八二九年)に秋田で没している。
 その百年後の昭和三年(一九二八年)に秋田県で行われた「菅江真澄百年祭」をきっかけに、「真澄遊覧記」の覆刻本と校訂本の出版が開始された。それを手助けしたのが、柳田國男である。柳田は、明治末頃から内閣文庫が所蔵する「真澄遊覧記」に出会い、「漫遊文人の生活方法として、交遊を上流裕福の人に求めなければならなかつたに拘らず、途上に心を引かれて居たのは、常に小さな人々の笑や悲みであつた。」(柳田1933:194)と真澄の観察眼を高く評価した。真澄は生前、旅先でお世話になった家々に自分の日記を残して行ったそうだが(柳田1942=1998:446)、柳田は家々に残された真澄の日記を発掘し、年代順に並べて、真澄の生涯を明らかにしようとした。
 柳田は著書『菅江真澄』の中で、真澄の日記について次のように評価している。

之に反して菅江翁の日記は一局部ではありますが、兎に角具体的な見聞録であります。例へば「芒の出湯」は享和三年の正月から五月まで、北秋田の大滝に在つて遭遇した節供祭礼の実況であります。「鄙の遊び」は文化六年の七月、八郎湖岸の村に居て目睹した眠流し・盆市・盆踊り・番楽・舞等の記事であります。其他男鹿半島の浜の正月でも、さてはずつと以前に雄勝の村で見た春の祝言や婚礼の作法でも、何れも用事の無い行きずりの客として、醒めたる心境と人のよい同情とを以て、脇から観察して居た覚え書であります故に、其光景は生動して居ります。(柳田1942=1998:469-470)

 柳田は、真澄の日記が必ず体験を経たものであることが、この時代の日記や紀行文としては珍しく、また、最も精確とされる官製の記録だと無味乾燥で、役人が公にしてよいと判断したことだけを記しているのとは対照的であり、「一人の篤志家が多大の日時を費し、身没して業は尚未だ完からずといふものは、一方に恕すべからざる欠漏はあつても、著者の力量次第では、独自の観察と見解とを世に伝へることが出来ます。」(柳田1942=1998:470)と高く評価している。
 他方、『鄙廼一曲』は、真澄が旅先で耳にした歌の歌詞を記した歌詞集である。自筆本は、昭和四年(一九二九年)十一月に東京の古書店で発見されたのを胡桃沢勘内6が購入し、昭和四年十二月十一日に柳田らによって真澄の自筆本であることが確認されている(森山1997:614-615、柳田1971:533、536)7
 柳田は『鄙廼一曲』を「此書は十の九以上が耳からの採集であつた。活きて行はれて居ることを確め得た民謡であつた。さうして今から百数十年前の、日本東半分の同時記録であつたといふことが、殊に史料としての価値を高からしめて居るのである。」(柳田1930=2010:342)と評価して、自ら校訂を行っている。

■菅江真澄は臼が好き?

 『鄙廼一曲』8は、美濃、信濃、三河、近江、越後から、東北地方全域で歌われていた歌詞に加え、蝦夷、ロシア、琉球の歌も含む、全部で三百四十三の歌詞が掲載されている。歌の種類は、農作業、山や海の仕事のほか、盆踊りなどの各種踊りの歌やわらべ歌がある。中でも、ダントツに多いのが臼仕事に関わる歌で、百三十一もあり全体の約四割を占めている9。『鄙廼一曲』の序文には「 いまし世の賤山賤(しづやまがつ))の宿にて、よね、粟、むぎ、(ひえ)を舂くに、ひねもす小夜さよはすがらに(きき)なれて、舂女つきめうす唄、雲碓唄(フミウスウタ)磨臼唄(ヒキウスウタ)もおかしきふしをひとふたつと、(きく)にまかせてかいつくれば、さはなり。」(森山校注1997:164)とあり、現代人にとってはせいぜい餅つきの時にしか見ない臼が、当時の人々にとってはとても身近なものであったことがわかる。
 『鄙廼一曲』と同じころにまとめられたとされる『 ももうすかた』では、真澄は各地の臼を描いている。『百臼之図』の序文には「おほみたからのもて、みたからとすへきものは、五穀イツクサを舂く臼杵にこそあらめ。」(内田、宮本編1973:173)とあり、真澄が臼杵を重要なものと考えていたことがわかる。
 『鄙廼一曲』と『百臼之図』、そして「真澄遊覧記」とを合わせると、江戸時代後期の人々の臼仕事の様子が浮かび上がってくる10。江戸時代後期の人々にとって、身近でなくてはならなかった臼を、真澄の目を通して見てみよう。

■真澄が描く臼歌

 まず、『鄙廼一曲』に書かれている数多ある臼歌から、「陸奥 宮城 牡鹿あたりの麦搗唄」の一首を挙げよう。麦搗きとは、臼で搗いて麦の実の殻をとる作業のことで、基本的には女の仕事だった。

136 川をへだてておせゝをもてば 舟よ棹よが気にかゝる
(頭書)おせゝとは、妹背とも、わがそうじける人をいふ。松前の、かんか、出羽いではの国に、はなぐりといふがごとし。(森山校注1997:181)11

 『新日本古典文学大系』の脚注によると、「おせゝ(おせせ)」とは、頭書にもあるように、愛おしい人、情人、ここでは男のことである。「舟よ棹よ」とは、船着場の人々の「舟よ棹よ」の声で、思う男が来たかと、という意味である(森山校注1997:181)。つまり、川の向こう岸に愛しい人(男)がいると、船着場の「舟よ棹よ」という声が聞こえてくるたびに、想い人が来たのではないかと気にかかる、という恋心を歌った内容の歌だ。
 森山弘毅によるとこの歌詞には元歌があって、『鄙廼一曲』の完成から遡ること約五十年前、明和四年(一七六七年)に刊行された『春遊興』12に、「川を隔てゝおせゝを持てば、船よ船よが気にかゝる」とある。これは当時、江戸で流行った歌だという。(森山1999:22)『鄙廼一曲』に出てくる「川をへだてて~」の歌詞も、『春遊興』にある元歌も詞型は七七七五調であることから、連載第9回で述べた伝播の条件にぴったり合う13。つまり、江戸の流行歌はやりうたが東北に伝播して麦搗の作業で歌われていたのである。
 この歌詞は、「真澄遊覧記」中の「はしわの若葉」にも出てくる。天明六年(一七八六年)四月二十六日、胆沢郡徳岡14(現在の岩手県奥州市胆沢小山)で聞いた臼歌である。

屋内の庭に磨臼するすを四つ五つ据えて、男や女がそれをひきまわし、声をあげて唄うのを聞くと、「川をへだて恋夫おせせを待てば、舟よさおよが気にかかる」と、磨臼の柄を動かしながら、くりかえしくりかえし拍子をとっていた。(内田、宮本訳1966:58)

 こちらは磨臼の作業で歌われている。磨臼とは、下臼の上に置かれた上臼を回転させて籾摺りや粉挽きを行う挽き臼(摺り臼)のことである。『百臼之図』(異文一15)には、二つの磨臼のスケッチ入り16で、「須理宇須はひとりびき、ふたりびき、ビキ片磨カタビキ、またツチ磑子スリウスなど其品いと多し。」とある(内田、宮本編1973:287、455)。また、同じ『百臼之図』(異文一)に、臼挽きをする女の絵17に、「石磑イシウスあり、これを挽臼といふ。磑子スリウス土臼ツチウス石臼イシウスもみなヒキ臼なり。ひき臼は茶臼のさまにつゆことならぬものから、處くにそのふりのたがふふしもありけり。」ともある(内田、宮本編1973:295、456)。
 ここでは、江戸の流行歌はやりうたが東北に伝播して臼の仕事で歌われていること、そして、麦搗といった搗き臼仕事でも、籾摺りや粉挽きといった挽き臼(摺り臼)仕事でも、同じ歌詞が転用されていることがわかる。
 また、臼歌だからといって、やはり臼について歌っているとは限らない。むしろ、臼仕事の場に、いろいろな歌を持ち込んできており、節操がないくらい雑多である。それは、真澄が日記に描いているように、臼仕事自体が、必ずしも一人でやる仕事ではなく、複数で、しかも男女で行われる仕事だからかもしれない。

■酒造りにおける臼の歌

 もう一つ、集団で行う臼歌をみてみよう。『鄙廼一曲』に「陸奥国南部斯波稗貫和賀などの郡に在る米踏歌」として出てくる酒造りの歌である。酒造りの作業では、米搗きの作業に臼が使われていた。『鄙廼一曲』では、十七首の歌詞が挙げられ、「早旦唄之」18(仕事始めの歌)、「朝飯後唄」、「昼飯後唄」、「晩及暮唄」に細分されている(森山弘毅校注1997:183-186)。
 このうち、『百臼之図』(異文一)中には、以下の説明と臼のスケッチに加えて、『鄙廼一曲』の「陸奥国南部斯波稗貫和賀などの郡に在る米踏歌」から四首の歌詞が転載19されている。

『百臼之図』
陸奥南部あたゝら山のほとり、花巻のうまやなる、女臼。
稗貫郡なにかしの村、女臼
(内田、宮本編1973:202、445)


『百臼之図』(異文一)
女臼二腰
道奥あたゝら山の麓あたりに在りし。
同國花巻のうまやに在し。
此あたりにうたふフミウスウタあるいは麥搗うた
さくら山、葛の葉、つま恋し、こがねたま。
(内田、宮本編1973:274、453)


【「鄙廼一曲」から転用されている歌詞四首】20
149今朝夜明し御茶の水 こがね玉が九ツ 一ツをば宇賀(ヲガ)に参らせ 八ツで長者とよばれた
(今朝夜明け方に汲んだお茶の水に、黄金の玉が九つ顕われたことだよ、その一つを穀霊の宇賀の神にお供えし、八つの黄金玉はこの家の主に恵まれて、めでたく「長者」と呼ばれたことだ)

153十七八が かい(つれ)て 桜山を(とほ)たれば さくら花は(さい)ても散る 顔にかゝる小ざくら
(十七八の娘たちが数人連れだって桜山を通ったら、ちょうど美しく咲いている桜の花が散ってきて、その小さな花びらが顔に散りかかったことだ)

156向ヒの山の(クゾ)の葉 何を(マネ)くぞの葉 吹上(ふきあげ)(ふき)おろし それを招く くぞの葉
(向いの山の葛の葉よ、何を招き寄せているのか、葛の葉よ、山へ吹きあげ、山を吹きおろす、その風を招き寄せている葛の葉だ)

160日を見れば八ツにさがる 麦を見ればからむぎ 刈ると麦を七日(つい)て お手に豆が九ツ 九ツの豆を見れば もたぬつまの(コヨ)しさ
(太陽を見ると午後二時過ぎで 麦を見るとまだ殻がついたままの大麦だ 麦を刈って七日間搗き続けると 手に豆が九つもできた その豆をみると まだ持ってもいない伴侶が恋しいことよ)

 『百臼之図』(異文一)に書かれている四首の歌詞のうち、『鄙廼一曲』では、最初の三首が「朝飯後唄」、最後の一首が「昼飯後唄」の歌である。朝のうちは、穀物の神様やこの家の主をほめる祝い歌だったり、桜や葛の葉など、風情のある歌だったりするが、昼になると歌に仕事のつらさが加わってくる。とはいえ、どの歌詞も風情のある内容である。真澄が、十七首からこの四首を抜き出して転載したところをみると、この四首は真澄にとってお気に入りの臼歌なのだろう。


  1. 1 藤田徳太郎は、「古い民謠集は、多く教化的意圖のもとに、純粹の民謠や自作他作の新作歌が集められたもので、此の教化運動と、それが爲めに純粹の民謠の歌詞が記録せられ、保存せられた副次的な功績とは、逸する事の出來ない價値を持つ。」(藤田1940:403)と述べており、実際には両者の複合した形の歌詞集も多いと思われる。
  2. 2 小野恭靖の解説によると、盤珪の『臼引歌』は、後代まで一種の流行歌として伝承され、今日、盤珪の『臼引歌』と認定できる歌謡は、明和六年(一七六九年)刊行の板本所収二十一首の他、写本『盤珪禅師躍謡』、叢書『片玉集』、随筆『蕪斎筆記』、随筆『卯花園漫録』、『盤珪禅師全集』、『延享五年小哥しやうが集』などに散見し、合計五十七首ある。(小野編2003:180)
  3. 3 版本は外題「宇寿飛起哥」と「臼挽唱歌」の二種があり、いずれも江戸後期の成立である。詳細は小野恭靖の「『うすひき歌』研究序説」(小野2006:18-25)を参照のこと。
  4. 4 安永十年(一七八一年)三月の序文があり、同年の刊と考えられる(小野編2003:188)。高野辰之の解説によると、「標題の如く越後に行はれた石臼挽の歌に詁訓を施したもので、越後の人、田子文の著である。其の地方で謠ふ平俗極めて解し易い俚謠に、極めて謹厳な口調を以て説明を下してゐる。恰も支那の詩経に訓詁を附けるやうな態度で、古調の漢文で綴つてあるのが面白い。序文によれば十二巻まで出す豫定であつたが、此の第一巻だけで、やめになつたらしい。」(高野編1929:4)とある。
  5. 5 この文献は、『志がらみ草紙』四十一號に掲載された翻刻でしか確認できていない。文末に「編者云、原文寫しあやまれりと覺えて、讀みときがたき所少からず、すべての様も甚いぶかし、又天保十三年には景樹既に肥後守に遷れり、これもいかゞ」((井上)1893=1995:32)とある。なお、『志がらみ草紙』には翻刻者の氏名の掲載がないが、柳田國男の兄で、歌人、国文学者、眼科医の井上通泰である(藤田1937=1986:38)。
  6. 6 胡桃沢勘内(一八八五-一九四〇)は東筑摩郡島内村下平瀬(現在の長野県松本市島内)の出身で、松本尋常高等小学校卒業後印刷工をへて銀行員となり、後に松本市議会議員にもなった人物である。正岡子規門下の上原三川、伊藤佐千夫に師事し、平瀬泣崖の名で歌人としても活躍した。大正時代になって、柳田國男や新渡戸稲造らによって結成された郷土会が発行していた雑誌『郷土研究』へ投稿したことをきっかけに、柳田の目にとまり、柳田との交流の中で調査研究を行った。(松本市立博物館編a2003:2-3)
     なお、『郷土研究』は全国各地の調査報告を収録した雑誌で、大正二年三月に創刊、昭和九年四月(七巻七号)に終刊している。
  7. 7 『鄙廼一曲』の発見について、森山弘毅は昭和四年十二月一日付の柳田から胡桃沢勘内宛の書簡を引用したとしているが、『定本柳田國男集 別巻四』では昭和四年十二月十一日付の書簡となっている。
  8. 8 文化六年(一八〇九年)にはほぼ編集が終わり、その後、いくつかの歌詞を加えて、文化九年(一八一二年)には清書し完成したと推測される(森山1997:616-617)。
  9. 9 内訳は、臼唄九十七首、麦搗唄十七首、米踏歌(酒造の歌)十七首である。
  10. 10 森山弘毅によると、『鄙廼一曲』と「真澄遊覧記」で重複する歌詞は約六十首あり、約六割の歌の場を書き残しているという(森山1997:621)。
  11. 11 底本は菅江真澄自筆本(森山校注1997:162)である。自筆本は、胡桃沢勘内が東京の古書店で購入し、勘内の死後も胡桃沢家で所蔵されてきたが、二〇〇二年に松本市立博物館に寄贈され、現在、松本市立博物館が所蔵している(松本市立博物館編b2003:3、55)。
  12. 12 孤立道人こと浄土宗の学僧夢庵大我(一七〇九-一七八二)が編集し、江戸の藤木久市が刊行した歌謡集。童謡・和歌を掲げ、それらをもとに五言絶句の漢詩を創作した文芸書。ここでの童謡とは“わらべうた”の意ではなく、流行歌謡や民謡のことを指している。(小野編2003:184)
  13. 13 ただし、「陸奥 宮城 牡鹿あたりの麦搗唄」に書かれた歌詞十首のうち、七七七五調はこの歌詞しかない。
  14. 14 天明六年(一七八六年)四月二十六日に、真澄がどこにいたのかは「はしわの若葉」に明記されていない。だが、「はしわの若葉」には、同年五月一日に「明日はこの家を出発しよう、去年から親しく交際してきた人々に、ふたたび会うときはどうであろうかなどと思う暁に、ほととぎすが鳴き、やがて空もしらんで、二日になった。去年から、なにかと世話をしてくれ、頼もしく思っていた人々の情を思うと、さすがにきょうの別れに胸がふさがり、涙がおちるのをおさえて、午前十時ごろ身支度をしてこの家をたち出ると、家じゅうの人が門の外まで見送ってくれた。」(内田、宮本訳1966:60)とある。去年からお世話になっていた家はどこなのかは、「はしわの若葉」に先立つ日記「かすむ駒形」に書かれている。同年一月元旦に真澄は、「遠い国々をさすらいあるき、今年も暮れて、陸奥の胆沢いざわ郡駒形荘ころもが関のこなた、徳岡(胆沢村)という里の村上良知の家にあって、新年を迎えた。」(内田、宮本訳1966:3)とある。このことから、天明五年(一七八五年)の暮れから、天明六年(一七八六年)の五月一日までの間、徳岡の村上家に滞在し、村上家を拠点に、方々に出かけていたことがわかる。四月二十六日は、前後の記録から、村上家での出来事と推測される。
  15. 15 『百臼之図』には異文が二稿ある。このうち、異文一は、真澄自身が後日、『百臼之図』を改めて編集したもので、未完成の草稿だが、明治になって真崎勇助によって一冊に装本されている。裏表紙には真崎の筆で「明治四拾弐年十二月二十五日求之」と記入されている。(内田、宮本編1973:499-500)
  16. 16 本稿にも同じ二つの臼のスケッチがあるが(内田、宮本編1973:261)、説明は異文一にしかない。
  17. 17 この絵は異文一にしかない。
  18. 18 「早旦」とは午前四時のこと。「早旦」の仕事始めの歌。(森山校注1997:184)
  19. 19 『百臼之図』(異文一)に転載された『鄙廼一曲』の歌詞のうち、153に若干の違いがある。(森山2003:31-32)
  20. 20 歌詞の引用にあたって、歌詞の原文は、『新日本古典文学大系』の「鄙廼一曲」(森山校注1997:184-185)から、歌詞の訳は森山の「『鄙廼一曲』注釈ノート」(森山2002:3、森山2003:31、38)から引用した。なお、最後の歌詞は森山の訳がないため、『新日本古典文学大系』の脚注(森山校注1997:186)を参考に筆者が訳した。

[参考文献]

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  • 内田武志、宮本常一訳1966『菅江真澄遊覧記2』東京:平凡社(東洋文庫68)
  • 内田武志、宮本常一編1973『菅江真澄全集 第九巻』東京:未来社
  • 小野恭靖編2003『近世流行歌謡:本文と各句索引』東京:笠間書院(笠間索引叢刊124)
  • 小野恭靖2006「『うすひき歌』研究序説」『学大国文』49、17-30頁
  • 高野辰之編1929『日本歌謠集成 巻11近世篇』東京:春秋社
  • 藤田徳太郎1937=1986『近代歌謡の研究』東京:勉誠社
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  • 松本市立博物館編2003a『あなたと博物館――松本市立博物館ニュース』松本:松本市立博物館、No.129
  • 松本市立博物館編2003b『胡桃沢コレクションI――博物館のお宝ってどんなもの?』松本:松本市立博物館
  • 森山弘毅1997「『鄙廼一曲』と近世の地方民謡」友久武文、山内洋一郎、真鍋昌弘、森山弘毅、井出幸男、外間守善校注『田植草紙 山家鳥虫歌 鄙廼一曲 琉歌百控』東京:岩波書店(新日本古典文学大系62)、614-635頁
  • 森山弘毅校注1997「鄙廼一曲」友久武文、山内洋一郎、真鍋昌弘、森山弘毅、井出幸男、外間守善校注『田植草紙 山家鳥虫歌 鄙廼一曲 琉歌百控』東京:岩波書店(新日本古典文学大系62)、161-226頁
  • 森山弘毅1999「『鄙廼一曲』注釈ノート その七――陸奥 宮城 牝鹿あたりの麦搗唄、仙台 鹿踊唱歌――」『人文・自然科学研究(釧路公立大学紀要)』11号、1-40頁
  • 森山弘毅2002「『鄙廼一曲』注釈ノート その十――斯波稗貫和賀などの郡に在る米踏歌(承前)――」『人文・自然科学研究(釧路公立大学紀要)』14号、1-25頁
  • 森山弘毅2003「『鄙廼一曲』注釈ノート その十一――斯波稗貫和賀などの郡に在る米踏歌(承前)――」『人文・自然科学研究(釧路公立大学紀要)』15号、13-49頁
  • 柳田國男1930=2010「ひなの一ふし」『柳田國男全集 第二十二巻』東京:筑摩書房、318-379頁
  • 柳田國男1933『退讀書歴』東京:書物展望社
  • 柳田國男1942=1998「菅江真澄」『柳田國男全集 第十二巻』東京:筑摩書房、431-574頁
  • 柳田國男1971『定本柳田國男集 別巻第四』東京:筑摩書房

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