専門書にチャレンジ

広瀬 大介(ひろせ・だいすけ)
1973年生。青山学院大学文学部比較芸術学科准教授。著書に『リヒャルト・シュトラウス 「自画像」としてのオペラ──《無口な女》の成立史と音楽』(アルテスパブリッシング、2009年)、訳書にベルリオーズ、シュトラウス『管弦楽法』(音楽之友社、2006年)など。『レコード芸術』誌などへの寄稿のほか、各種曲目解説などへの寄稿・翻訳多数。 Twitter ID: @dhirose

広瀬 大介

第5回
日本音楽研究に大きなパラダイム・シフトをもたらした小泉文夫

 小泉文夫。とてつもなく魅力的で、迫力に溢れた人であったらしい。彼の薫陶を受けた直弟子のみならず、さまざまな人間を惹きつけ、魅了し、多大な影響を与えたというエピソードを読むにつけ、この人はある種の宗教的なオーラを身に纏っていたのだろう、と思わずにはいられない。かの松岡正剛による回想が、小泉の魅力的な人となりを語ってあまりあるので、是非ご一読を。

  小泉は、自身の研究と経験を、『日本伝統音楽の研究』という書物によって集大成しようとした。第1巻「民謡研究の方法と音階の基本構造」に始まり、第2巻「リズム」、第3巻「旋律法」、第4巻「楽器」まで書き進め、一つの体系を形作ろうという気宇壮大な構想である。ところが、執筆のみならず、取材旅行、大学での校務、メディアへの出演等々、多忙を極める小泉は、なかなかこの構想を実現にうつすことができない。癌の発見が遅れ、56歳という若さで世を去ったこともあり、結局『日本伝統音楽の研究』は、第1巻と第2巻が残されたに過ぎなかった。今回発売された「合本」は、この第1巻と第2巻を一つにまとめたものである。

  本書が、数ある小泉の著書の中でも、もっとも歯ごたえのある本であることは間違いない。『日本の音-世界の中の日本音楽』、あるいは『音楽の根源にあるもの』(いずれも平凡社ライブラリー、1994年)などに比べても、『日本伝統音楽の研究』は専門的な研究書、大著である。はじめから順番に読み進めてしまっては、おそらく大半の読者にとってあまり興味がわかぬであろう、民謡研究における方法論の検討が延々と続くことにうんざりしてしまうに違いない(もっともこれはこれで、小泉が構築した理論が、ドイツ系の民謡研究に多くを負っていることがわかり、十分興味深いのではあるが)。

  というわけで、全く小泉が構築した民謡研究における音階理論を知らない読者は、いきなり本書を通読しようとする蛮勇をふるうよりは、まず222頁からの「7.結論」に目を通すことを強くお勧めする。小泉自身の言葉を借りれば次のようになる。

「私の考えている理論をもし2分間で説明しろという人が現れたら、私は次のように言うであろう。
日本の旋律には、音程のはっきりしない、動きやすい音と、けっして動かない中心の音とあって、後者を核音とよぶ。
この核音は4度の「わく」をなしていて、中間にはただ1つの中間音がある。この3つの音からなる「まとまった音の単位」をテトラコルドという。」

 テトラコルドには民謡、都節、律、琉球の様式による四種類があり、このテトラコルドを2つ組み合わせることによって、それぞれの基本音階が成立する、というその論旨は、日本音楽の音階を(中国由来、つまり外来の)雅楽の律旋、あるいは声明の理論によって解釈してきた従来までの説明を、根本的に覆す大発見だったのである。さらに日本音楽のみならず、アジア諸民族、さらにはハンガリーなどの音組織も、この理論を用いることである程度まで理論づけることができる、というその主張は、日本音楽研究に大きなパラダイム・シフトを伴うものであり、現在の研究の隆盛をもたらすきっかけとなった。

 この第1巻に比べると、リズム論を扱う第2巻は執筆中途であったこともあり、第1巻のような「結論」がないので、いささか読み通すには根気がいる。とはいえ、日本の民謡を、拍節的な「八木節」様式と、メリスマ的な「追分」様式に分けて考察する手際の鮮やかさは卓越しており、第1巻よりもより実証的かつ説得力(あるいは相手を説き伏せようとする迫力と言うべきか)に富んでいる。皆が思っていることではあろうけれど、小泉があと20年、いや10年この世に生きて、少しでもこの続きを書き進めていてくれたなら、日本音楽の研究はどれほどの高みに達していたことだろうか。

 なお、音階論・リズム論共に、西洋音楽の楽典の知識もさることながら、邦楽における基本的な用語の知識が読者には求められているので、三分損益、律の五声(宮・商・角・微・羽)、陽旋と陰旋といった基本事項に不安のある方は、『日本音楽基本用語辞典』を傍らに置き、その都度意味を確認しながら読み進まれるとよいだろう。


ご紹介した本
『日本音楽基本用語辞典 』

日本音楽基本用語辞典
音楽之友社 編

雅楽からアイヌ音楽まで、日本音楽の基本的な用語をジャンル別に解説したハンディな辞典。全体は、一般的用語、雅楽、仏教音楽、琵琶楽、能・狂言、三味線音楽、歌舞伎囃子、地歌、箏曲、尺八音楽、民謡、民俗芸能、沖縄・奄美の音楽、アイヌの音楽に分かれる。執筆は各分野の専門家12名。わかりやすい解説を読めば、各ジャンルの特色が一望できる。巻末には索引を付し、用語を五十音順でも検索できるようにした。この索引を活用することによって、ジャンル間のつながりも見えてくる。音楽関係者のみならず、日本文化に関心を持つすべての人にとって必携の辞典!

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