21世紀のふるさとの歌を訪ねて

島添貴美子(しまぞえ・きみこ)
富山大学芸術文化学部准教授。
研究分野:民族音楽学(日本の民謡・民俗芸能)。
共著:『エイサー360度』(沖縄全島エイサーまつり実行委員会、1998年;沖縄タイムス出版文化賞受賞)、『民謡から見た世界音楽』(ミネルヴァ書房、2012 年)など。
放送:NHKラジオ第二の番組「音で訪ねる ニッポン時空旅」に出演、解説を担当。同番組は「NHKに残された日本各地の祭りや民謡の貴重な録音を堀り起こし、 音からイメージできる“ニッポンの暮らし”を語り合う」。2015年4月に放送開始、現在もレギュラー番組として放送中。

島添貴美子
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第7回
NHKと日本民謡大観

 現在のNHK(日本放送協会)が開局したのは大正十四年のことである。当時は、もちろんテレビはなく、ラジオ放送のみで、しかもスタジオでの生放送であった。
 記録によると、日本初の民謡の放送は、仮放送段階の大正十四年四月十四日放送の「追分及尺八三絃合奏」らしく、七月五日夜にも「地方民謡と新民謡」が仮放送され、好評を得たという(NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995:7)。
 東京(JOAK1、大正十四年三月二十二日放送開始)、大阪(JOBK、大正十四年六月一日放送開始)、名古屋(JOCK、大正十四年七月十五日仮放送開始)から始まったラジオ放送は、次第に全国へ放送網を広げ、地方局が次々に開局した。そして、その開局記念番組に、土地の民謡が取り上げられてきたという(NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995:7)。
 民謡は開局当初より番組素材の一つであった。当時のNHKは、人々にとって身近な物事を番組で取り上げることで、ラジオという未知なるモノに親しみを持ってもらおうと考えた。現在なら、メディアで取り上げられることで全国に知られるのが当たり前だが、開局当時はその逆で、ラジオというメディアを知ってもらうために、民謡を利用したのである。それだけ当時の人々にとって民謡は身近な存在であったといえる。(島添2017:10、NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995:7)
 ただ、こうして人々に親しまれた民謡は、どちらかといえば、「本当の民謡」ではない方の民謡だったようなのである。

■番組素材としての民謡

 NHKの最初の邦楽番組の担当は連載第6回の主役、町田しょうである。町田は当時の邦楽放送について、「然しラジオ創設次第には聴衆者を増やすためには娯樂放送より外に無く、今のように歌謠曲などというものの全部存在していなかつた時代のこととて、矢張り三味線の邦樂類や浪花節、演藝、映畫物語というものが幅を利かせていた」(町田1951:52)と回想している。その中で、民謡といえば、「私(筆者注:町田)がNHKに在勤時代の民謡として聴取者が喜んで聞いてくれていたのは三味線入りのお座敷唄に限られていた」(町田1966:24)し、「今日いうところの『民謡』も『地方俚謡』という種目にして、出来るだけ各地の唄を広く紹介したいと努力したが、当時としては未だ民謡というよりは俗曲めいた三味線唄の方が一般聴取者には耳なれている程度で、ほとんど一般聴取者の注目は引かなかった」(町田1974:14)という。
 町田が昭和九年に出版した『邦樂鑑賞法』に掲げた民謡の分類では、民謡の下位に「俚謡」、「俗謡」、「巷歌」、「新俚謡」とある2。俚謡は、中でも「一番範囲も広く、且つ俚謡としての核心を為す」(町田1934:143)仕事歌3が代表であるのに対して、俗謡(と巷歌も)は「三味線が這入つた俚謡、即ち御座敷歌謡化した俚謡」(町田1934:144)とある。
 実質的な邦楽番組担当プロデューサーだった町田の目には、明治以来の「民謡vs.技巧歌または流行はやりうた)(=俗謡、または俗曲とも)」という対立の構図ではなく、俗謡も民謡の一種であった。おそらく、町田のこうした認識は、当時の世間一般の認識でもあったと思われる。これに対して、柳田國男の「民謡分類案一、二」は、それから二年後の昭和十一年に発表されているが、比較すると、柳田の民謡は、『邦樂鑑賞法』の「俚謡」のみに限定されている(柳田1936=1998:180-185)。むしろ、柳田の「民謡」の方が明治以降の対立を踏襲し、意図的に定義されているようにみえる。
 たしかに、NHKの歴代の民謡番組をみると、町田の分類では民謡の一つである俗謡が取り上げられてきたのに対して、柳田の民謡=町田の俚謡は、民謡番組よりもむしろ、「新日本紀行」や「音の風景」といった地方の風物を扱った紀行番組で扱われてきた。

■NHKの民謡調査

 町田の俚謡(=柳田の民謡=本当の民謡)は、娯楽番組としては人気がなかったようだが、昭和十年代になると、NHK内で見直されるようになる。町田は当時のことを次のように回想している。

(前略)間も無く日支事変が勃発して国民の総力結集が叫ばれ出し、それには国民性の再検討という立場から民謡の存在が問題視されるようになり、NHKでも昭和十二年から放送資料の拡充という立場から民謡の調査費として八千円を計上し全国の市町村に民謡芸能の有無のアンケートを求めその報告に基ずいて実地調査に出かけ電波にかけるようになつてきた。(町田1961:63)

 この調査は当時の六つあった中央放送局(東京、大阪、名古屋、広島、熊本、仙台、札幌)が分担して、各局が管轄する地域へ調査票を送り、回答を依頼している4。以下の依頼状は、昭和十一年六月十六日付で業務局長(東京)から、直轄放送局長あて5に「俚謡提案ニ關スル件」として出されたものである6

業第三五二一號
昭和十一年六月十六日
直轄放送局長

俚謡提案ニ關スル件
當局番組編成及管内俚謠調査ノ資料ト致度ニ付爾今貴管内ニ存スル俚謠中全國中繼放送希望ノモノアラバ放送スベキ月ノ前々月末日迄ニ其俚謠種目、歌詞解説並出演者氏名及經歴ヲ詳細ニ記載ノ上提案相成度尚右以外貴局ローカルトシテ放送豫定ノモノモ参考トシテ併記相成度

 依頼状を読む限り、調査というより「番組で取り上げるから、ご当地民謡を出して欲しい」というお願いにみえる。しかし、依頼状に添付された書類をみると、調査の準備として「俚謠研究ノ権威者」十名を招いた打ち合わせ会を行うとしている。顔ぶれをみると、柳田國男、田邉尚雄、小寺融吉、町田嘉章、北野博美、中山太郎、折口信夫、中山晋平、兼常清佐、北原白秋といった錚々たる顔ぶれで、彼らに調査の方針、採録の方法、整理保存の方法、社会公示方法などについて意見を聞くとしている。そうなると、単なるご当地ソングの募集ではなく、民謡調査と位置付けられていたと考えてよさそうである。
 依頼状の添付書類によると、調査方法は、通信調査(いわゆるアンケート調査)と実地調査(現地調査)とある。
 通信調査の回答7をみると、町田のいう俚謡と俗謡が混在している。しかし、これまでのアンケート調査と異なる点は、歌詞だけでなく、歌の特徴や演唱者(演奏団体)の情報を収集することで、いつでも出演依頼ができるようにしたところである。
 対する実地調査は、残っている文書8から推測すると、おそらく、通信調査の回答を受けて、昭和十四年に、町田と藤井清水に依頼して行った長野県と新潟県の補足調査(九日間)ではないかと思われる9
 この調査と町田が私財を投じて行った調査(連載第6回を参照)は、昭和十五年に始まるNHKの民謡調査事業『日本民謡大観』に引き継がれた。

■日本民謡大観事業

 「日本民謡大観」事業は、NHKが昭和十五年(一九四〇)から平成三年(一九九三)まで、五十三年をかけて行った民謡調査で、局内では「大河事業」(NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995:3)ともいわれていた。
 昭和十五年の開始当初、この事業は、民謡調査と民俗資料収集の二本柱で行われていた。管見の限りだがNHK内に残っている日本民謡大観事業に関する文書の中に昭和十五年当初のものはないので、ここでは事業開始三年後に起案された昭和十七年四月十日付「民俗資料蒐集整備幷民謡採譜に関スル件」から内容をみる。

放送企画資料トシテノ民俗資料特ニ傳説及説話ノ蒐集整備ニ関シテハ十五年度豫算ヲ以テ鋭意之ニ当リ着々進捗ヲ見ツツアルモ尚ソノ半ニ達スルニ過ギサルヲ以テ更ニ十七年継續事業トシテ之ガ完成ヲ図リ度、又十五年度以降五ヶ年継續事業トシテ実施シ來リタル民謡録音及採譜ニ関シテハ既ニ調査採譜を了シタル一、二〇〇曲ノ曲譜ヲ印刷ニ附スルト共ニ引續キ新調査ヲ進メ度

 続いて、調査整備事項、期間、委嘱先として、「民謡ノ調査事務指導幷民俗資料蒐集整備 柳田國男」、「民謡ノ調査及録音関係事務 町田嘉章 小寺融吉」、「民謡ノ調査及採譜関係事務 藤井清水」、「民俗資料蒐集整備 関敬吾」の名前がみられる。ここから、事業開始当初は柳田の指導の下、町田、小寺、藤井が民謡調査と採譜作業を委嘱され、作業が行われたことがわかる。その後、民俗資料収集は昭和十八年で終了する10が、民謡調査は約半世紀にわたって続くことになる。
 日本民謡大観事業は大きく三つの時期に分けられる。
 第一期は昭和十五年より昭和二十六年までで、町田が中心となって調査と『日本民謡大観』の編纂を行い、レコード音盤11によるスタジオ録音を基本とした。終戦前に小寺と藤井が亡くなったため、戦後しばらくの間は町田とNHKの局員(音楽資料課12)で調査が続けられた。
 第二期は昭和二十七年(一九五二)から昭和五十五年(一九八〇)までである。昭和二十七年三月十五日付「民謠調査委嘱について」(編資第二五四四号)によると、「全國民謡調査計画は、昭和二十六年度をもって一應基礎資料の収集を終ったので、二十七年度以降は収集の範囲を拡大し、未調査未採録のものについて着手する」とし、録音媒体にオープンリールを導入した。そのため、第一期の補足調査という位置づけではあったが、実際には第一期よりも格段に収録曲数が増え、音盤録音の時代よりも長時間の録音も可能になった。昭和三十年代になると若手研究者たち13が調査や採譜を手掛けるようになり、昭和四十年代の『日本民謡大観 中国篇』の調査からは、高齢の町田に代わり、町田の下で働く竹内勉、牛山あきらとNHKの音楽資料課の協同作業で調査・編纂作業が行われるようになった。
 第三期は昭和五十六年(一九八一)から平成三年(一九九四)までである。『日本民謡大観』全九巻(ここでは「本土篇」と呼ぶ)の出版完了を見届けて、昭和五十六年に町田は逝去した(九十三歳)。事業は、東京芸術大学民族音楽ゼミナール(通称民ゼミ)と外間守善の法政大学大学院外間ゼミナール(通称外間ゼミ)の合同チームに引き継がれ、沖縄・奄美編の調査が行われた。調査と採譜を実働した民ゼミは、代表の小泉文夫が調査開始直後の昭和五十三年に急逝したため、小柴はるみが代表を引き継いで作業にあたった。この時期の調査・編纂作業について、『NHK民謡調査の記録一九三九-一九九四』には次のように書かれている。

町田の下に集中した本土各篇の編集と異なって、芸大ゼミ(筆者注:民ゼミのこと)のメンバーは年の経過とともに全国に分散し、文学グループ(外間ゼミ)の主部は、作業の中心となった波照間永吉をはじめとして沖縄にあり、個々の唄への対し方や、そのまとめ方への観点も、専門とする分野・立場によっておのずと異なるものであった。学際的成果をめざす上からは、当然のことであったが、これら遠隔の人々の連携を整え、意見をたたかわせ、そしてその調整をはかりながら編集を進める作業は困難なもので、予想以上の時日を要することとなった。(NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995:50-51)

 町田の時代には、最終的には町田の判断で進んでいた『日本民謡大観』の調査・編纂作業も、大学のゼミナール集団の遠隔作業となると、インターネットが普及する前の時代ではなかなか簡単ではなかっただろう。一方、録音にカセットテープ14も使われるようになり、より手軽で長時間の録音が可能になった。昔に比べればはるかに贅沢な録音の仕方ができるので、演唱だけでなくインタビューなども録音されるようになった。

 五十三年間にわたる事業成果は、採譜集『日本民謡大観』(本土篇九巻と沖縄・奄美篇四巻)として、昭和十九年より順次、出版された15。本土篇は『復刻日本民謡大観』として平成三年より再版された際に、音源CDが付いて、『日本民謡大観』に掲載されている採譜の一部が音で聞けるようになった。そのほかに、NHKの内部資料としてLPレコード集『日本民謡集』(一部はCD)が制作されており、番組制作素材として使用されている。


  1. 1  JOAK、JOBK、JOCKは、現在のラジオ第1放送のコールサイン(呼出符号=発信元を識別する符号のこと)である。NHKの局員が残している古い書類には、東京放送局をAK、大阪放送局をBKなど、コールサインの下二文字で記しているものが多々みられる。
  2. 2 「邦樂鑑賞法』の分類図(町田1934:142)を参照のこと。
  3. 3  町田は労作歌と表現している。
  4. 4  NHK局内に保管されている文書によると、依頼は、業務部(東京)から、大阪、名古屋、広島、熊本、仙台、札幌の地方局に宛てているが、調査自体は業務部を含めた六つの地方局が分担して全国(一万千五百六十七の市町村)を網羅する形で行われている。この時点での予算は六千円となっている。
  5. 5 昭和十一年当時、東京中央放送局(書類では、業務局)の管轄の地方局は、長野(JONK、昭和六年三月八日放送開始)、静岡(JOPK、昭和六年三月二十一日放送開始)、新潟(JOQK、昭和六年十一月十一日放送開始)、前橋(JOBG、昭和八年六月二十三日放送開始)であった。その後、甲府(JOKG、昭和十二年開局)と松本(JOSG、昭和十三年開局。昭和六十三年に長野放送局の支局となりコールサインは廃止)が開局し、東京の管轄下に入った。
  6. 6 依頼書類と回答は、(公財)日本民謡協会所蔵の町田資料にある。
  7. 7 回答用紙は、依頼を出した放送局ごとに書式が若干異なるようだが(NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995:8、10-11)、(公財)日本民謡協会所蔵の町田資料にある東京放送局の書式だと、(一)名称、(二)節と囃子、(三)演者、(四)発生期、(五)若し実地見聞に参上する場合は何處で下車すればいいですか?又道順はどうなっておりますか?、(六)すでにラジオで放送済のものはその旨明記して下さい、という六つの質問からなる。
  8. 8 (公財)日本民謡協会所蔵の町田資料中、昭和十四年四月二十一日付の文書「俚謡調査報告ニ関スル件」(業第八五八號三)に、「供覧 □ニ右調査方ヲ町田嘉章、藤井清水両氏ニ委嘱シタル處、別紙ノ通結果報告アリタルヲ以テ供覧ス」として、町田と藤井連名の調査報告書が添付されている。
  9. 9 調査報告書「長野県、新潟県の一部俚謠調査報告」によると、「本調査は大体、昭和十一二年度AKに於いて其管轄府県町村長宛調査依頼回答書の報告を基礎とし、其の足らざる所は其地方在住の民俗研究家に助力を乞ひて収集したる材料の内長野、新潟両県に属するものを、我等に與へられたる日数(八泊九日□)に割當て出来得る限り能率の上るやうプランを作成したるものなり」とある。なお、報告書は町田と藤井の連名だが、町田の採集手帳によると、町田一人で調査に出ており、報告書の筆跡が町田のものなので、調査報告は町田、採譜は藤井と思われる。
  10. 10 戦後に二冊の本が出版されている。
  11. 11 現在残っている戦前戦後の音盤から推測すると、おそらく金属原盤を使用していると思われる。金属原盤とは、アセテート盤、またはラッカー盤といわれたもので、金属の円盤を樹脂でコーティングし、樹脂部分に溝をつけて録音するもので、劣化が早く保存用には向かなかった。そのため、保存するにはSPレコードにしておく必要があった。
  12. 12 NHKの組織はしょっちゅう名称や構成が変わる。日本民謡大観の資料にはよく「音楽資料課」という名称が出てくるので、ここでは日本民謡大観事業に関わった部署を「音楽資料課」で統一する。
  13. 13 小泉文夫(採譜のみ)、柿木吾郎、竹内勉、牛山杲などの名前がみられる。
  14. 14 NHKでは、アナログ録音にカセットテープは使用せず、もっぱらオープンリールを使っていたが、民ゼミの調査ではカセットテープが使われていた。
  15. 15 『日本民謡大観』を冠してはいないが、音楽資料課は昭和二十二年~昭和二十六年、昭和三十六年~昭和三十九年に行われたアイヌ調査も手掛けており、『アイヌ伝統音楽』(昭和四十年)と『アイヌの音楽』(LP十枚、昭和四十二年)を出版・制作している。

[参考文献]

  • NHK「日本民謡大観」制作スタッフ編1995『NHK民謡調査の記録一九三九-一九九四』東京:日本放送協会放送事業局データ情報部
  • 島添貴美子2017「NHKと日本民謡調査」『歴博』Vol.201、10頁
  • 日本放送協会編1965『アイヌ伝統音楽』東京:日本放送出版協会(付録・録音シート3枚)
  • 町田嘉章1951「邦樂放送」『音樂之友』第九巻第八號、50-52頁
  • 町田嘉章1934『邦樂鑑賞法』學藝社(音樂講座、第18篇)
  • 町田嘉章1961「地図の上に引いた一本の路線(NHKが日本民謡大観を発行するに至る経緯)」『藝能』3(1)、60-63頁
  • 町田佳声1966「民謡研究の方法(上)――民俗学的方法による総合的研究について――」『藝能』8(8)、23-27頁
  • 町田佳聲1974「民謡界の先達」『青森NOW』第十一号、青森大学出版局、14-16頁
  • 柳田國男1936=1998「一つの分類案」柳田國男『柳田國男全集 第十一巻』、東京:筑摩書房、180-185頁
  • 日本放送協会編『日本民謡大観』東京:日本放送出版協会(関東篇1944、東北篇1952、関東篇第二刷1953、中部篇(北陸地方)1955、中部篇(中央高地・東海地方)1960、近畿篇1966、中国篇1969、四国篇1973、九州篇(北部)1977、九州篇(南部)・北海道篇1980)
  • 日本放送協会編『日本民謡大観(沖縄・奄美)』東京:日本放送出版協会(八重山諸島篇1989、宮古諸島篇1990、沖縄諸島篇1991、奄美諸島篇1993)

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